本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第94回は、ジョン・スタークス です。

 

 

 1965年オクラホマ州タルサ出身。

 3歳にして父親が家を捨てたため、母が7人きょうだいを育てました。教育環境が良いわけもなく、やっと入った高校では生活費を稼ぎつつストリートバスケットに興じる日々。

 

 バスケの才能を買われ、幸運にもロジャース州立大に推薦入学できたのに、成績は悪いわ、窃盗事件で捕まったり寮で大麻を吸ったりとロクな学生じゃなく、やがて退学になりました。

 

 それでもバスケットの素質はたしかのようで、タルサ短大やオクラホマ州立大から誘いがかかり試合で結果を出すと、1988年ドラフト外でゴールデンステイト・ウォリアーズが契約を申し出ます。

 

 しかしドラフト外にロースター枠があるわけもなく、1年であっさり解雇。CBA、WBLなど独立リーグのマイナーチームでプレーは続けました。素行の悪さは相変わらず。

 

 25歳になっていた1990年秋、ニューヨーク・ニックスのプレシーズン練習試合要員で呼ばれたスタークスは、張り切りすぎてチームの大スター、パトリック・ユーイング にカットインを仕掛け玉砕、脳震盪で病院送りになってしまいます。

 

 これがなんともラッキー。練習要員とはいえ治療の責任はニックスにあるため、故障者リストの名目でチームロースターに残ることができたのです。

 

 さらなるラッキーは、シーズンに入ってシューティング・ガードのトレント・タッカーが故障離脱。スタークスにチャンスがやってきたのです。ここでスタークスは期待以上のプレーで応えたのでした。

 

 公称6ft5in(195cm)のシューティング・ガードはありふれたタイプながら、シュートだけでなくスピードとボールハンドリング、センスの良いパスワーク、真面目なディフェンス、なにより闘志むきだしの激しさはニューヨークのファンのお気に入りになりました。

 

 さらにさらに、ヘッドコーチに就任したパット・ライリーがスタークスのアティチュードを気に入り、ユーイングに次ぐチームのセカンドオプションに指名。1992-1993シーズンに平均17.5得点をマークすると、ニックスがNBAファイナルに進んだ1993-1994シーズンは平均19.0得点でオールスターに選ばれました。

 

 

ニックス史上屈指の人気選手

 

 

 素行のほうは少しはマシになったものの、コートでは頭に血が上ると相手に手を出すこともしばしば。チームに厳格なチャールズ・オークリーがいて、いつも制止してくれたのは幸いでした。とくにマイケル・ジョーダンとのマッチアップは当時NBAの最大呼び物。

 

 ニックスファンの代表である映画監督のスパイク・リーからも 「ジョンが私のアイドル」 と公言され、当時オリックスのイチロー選手もファンだと言うほど世界的に人気選手になったスタークス。1994年NBAファイナルでは不調に陥り敗退の主因になってしまいましたが、ユーイングとスタークスのデュオは1990年代ニューヨークの象徴であり続けました。

 

 1999年1月、ユーイングの衰えでチーム再建を断行したニックスはスタークスを放出。そのあとはジャーニーマンとして移籍を繰り返すものの、ニックス時代ほどの輝きはなく、37歳になった2002年、ユタ・ジャズで14年のキャリアを終えます。

 

 引退後、スタークスはニックスからOB選手会長の肩書きをもらい、子ども向けのバスケットボールキャンプを開催、貧しい家庭の子でも進学できるよう、奨学金プログラムの運営を任されています。幼少期に苦労した彼にはうってつけの仕事でしょう。

 

 故郷タルサでは、彼がストリートバスケに興じていた公園を今では ‟ジョン・スタークス・パーク” と名付け、全施設を子どもたちのために無料開放しているそうです。

 

 スタークスの人気は個人成績で説明できるものではなく、オンタイムでのムードは今や伝わりません。あの時代のニューヨークに彼がコートに立っていた、偶然の成せたものなのでしょう。