本日は、みつまめ忘れじのNBA名選手を回顧する後ろ向き企画、「みつまめNBAスーパースター列伝バスケ」。

 

 第47回目は パトリック・ユーイング です。

 

 

 NBA史上最高のスーパーセンターのひとり。

 1962年ジャマイカはキングストン出身で、11歳のときアメリカに移住し、高校時代には7ft1in(213cm)のサイズに成長しました。

 

 進学はかのビル・クリントン元大統領と同じワシントンの名門ジョージタウン大。バスケットボールの活躍はもちろん、学業でも優秀でした。

 

 1984年NCAA優勝を達成。同年のロサンゼルス五輪では金メダルを獲り、1985年NBAドラフトの超目玉。

 NBAコミッションは、ユーイング欲しさで下位チームが順位を下げため、わざと試合に負ける事態を憂慮。プレーオフを逃した7チームによる抽選方式(ロッタリー)に制度を変更したほどでした。

 

 当たりクジを引いたのはニューヨーク・ニックス。 

 全米一の大都市とはいえ、人気のわりに昔も今もさほど強豪ではないチームのエースを託されたのです。10年間3000万ドルの巨額契約に期待がこもっていました。

 

 ニックネームは “キングコング”。

 風貌と、豪快なゴールポストでのプレーが摩天楼を登るシーンを彷彿とさせたからですけど、現在なら物議を醸すことでしょう。

 

 1985-1986のルーキーシーズン、平均20.0得点 9.0リバウンドで新人王は獲得しましたが、チームが23勝59敗だったため、期待外れ感が漂います。

 

 ユーイングは性格温厚で神経質だったため、チームメイトとの和を大切にし、コーチの指示には忠実。批判過剰なニューヨークのマスコミを聞き流すことが出来なかったのです。NBAの流儀に慣れ、我が道を見出すのに数年を要しました。

 

 

ニックス史上最高のスター

 

 

 ゴール下だけでなく、ロングレンジのジャンプシュートの正確さに磨きをかけ、体を張ったディフェンスを会得した1989-1990シーズン、平均28.6得点 10.9リバウンドでオールNBAファーストチーム受賞。チームは45勝37敗を挙げ、プレーオフではラリー・バードのボストン・セルティックスを下し、ようやく殻を破りました。

 

 1992年アトランタ五輪では “ドリームチーム” に選ばれ2個目の金メダル。NBAのスーパースターの地位を不動のものにしたとはいえ、優勝のチャンスは同地区のマイケル・ジョーダン擁するシカゴ・ブルズに阻まれ続けました。

 

 ジョン・スタークスやチャールズ・オークリーなど陣容が整った1993-1994シーズン、ついにブルズを破りNBAファイナルに進出。残念ながらフルゲームの末、アキーム・オラジュワンのヒューストン・ロケッツに敗れ、チャンピオンリングは逃しました。

 

 90年代を通じて、ユーイングはリーグのトップセンターであり続けます。当時、オリックスにいたイチローが大ファンを公言していたほど、日本のNBAファンにも人気がありました。

 

 人望と頭脳明晰さを買われたユーイングのもうひとつの顔は、NBA選手会会長。

 ジョーダンたち高給のトップスターが知らんぷりするなか、オーナー連との労使交渉を一手に引き受け、1998年秋のロックアウトでは辣腕を振るったのです。

 

 ニックスで15シーズンを送ったあと、アキレス腱を痛めた晩年は衰えが隠せませんでしたが、シアトルとオーランドで現役を続行し、2002年に39歳で引退。

 

 悠々自適なセカンドライフも出来たでしょうが、そこは人望があり、頭脳明晰な彼のこと。放ってはおかれず、いろんなチームでアシスタント・コーチを請われました。ベンチでスーツ姿、大きな体を丸くして熱心にノートを書き込む様子は、真面目な人なんだなと感心したものです。2017年からは、母校のジョージタウン大でバスケットボール部のヘッドコーチを務めています。

 

 NBA史に残る名選手でありながら、チャンピオンリングは手に出来なかったことで 「悲運のスター」 と言われることが多いですが、大物ルーキー扱いに始まり、苦難を経てキャリアを積み上げ、誠実さと向上心を失くさないユーイングの人生は、酸いも甘いもかみ分けたような味わい深さを感じます。

 

 今年5月、新型コロナに感染したと公表し心配しましたが、無事に快復したそうでなにより。