*3月1日付記事 の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコニコは、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは大久保利通です。

 

 本日は、寺田屋騒動と生麦事件 のおはなし。

 

 

 

ラーメン ピザ ジュース

 

 あんみつむっ 「しらたま先生、西郷が離脱させられた京都では、薩摩藩が恐れていた大騒動を起こしてしまいました。大久保の狙いは、雄藩が合従して幕政改革のイニシアチヴを握ることでしたが、精忠組の中で、そんなのは手温い、と反発していた有馬新七ら武闘派による暴発です」

 

 しらたまオバケ 「島津久光が薩兵1000人を率いて大坂に入ったのは文久二年(1862)四月十日。このころ全国の志士300人ほどが集結し、テロ決行を企てていた。目的は京都所司代や開国派の公卿を討ち払い、朝廷から排外攘夷の詔勅を出させることだ」

 

 あんみつショック! 「幕末の志士として良くも悪くも名を残す、真木和泉や平野国臣、清河八郎、久坂玄瑞ら長州組、吉村虎太郎ら土佐組も参集していました。久光は不穏を察し動揺したことでしょう」

 

 しらたまオバケ 「テロ決行は四月二十三日と決まり、その日有馬新七らは伏見の船宿・寺田屋に寄宿していた。これを聞いた久光は激怒し、“取鎮め” のため奈良原幸五郎、大山格之助ら剣豪を選び寺田屋に派遣した。押し問答の末ついに斬り合いに発展、薩摩藩士同士の壮絶な内ゲバとなる」

 

 あんみつしょぼん 「有馬新七は道島五郎兵衛と組み合いになり、同志の橋口吉之丞に向かって 『おいごと刺せ!』 と叫んで串刺しに討たれたんですね。享年38。西郷ですら一目置いた豪傑だったと言いますが、あたら命を散らしたものです」

 

 しらたまオバケ 「この事件でテロは未遂に終わる。朝命により寺田屋にいた他藩の藩士も薩摩が預かることになり、海路で送還したのだが、なんと久光の命により船中で全員殺害し、遺体を海に捨てた。むごいことこの上ない。これが “志士” の実態さ」

 

 あんみつかお 「大久保一蔵はこの事件の前後で、存在を消したかのように態度を明らかにしていません。西郷ならともかく、久光に近い大久保では、とても有馬らを抑えることは出来なかったでしょうけど、まるで成り行きまかせ。これで迷惑な武闘派が排除されるならめっけもん、という感じの冷酷さです」

 

 しらたまオバケ 「結果的に、“テロを敢然と鎮圧した” 島津久光に対する幕府・朝廷の信用は高まった。薩兵は治安維持のため滞京を許され、幕府は久光の提言を採用する」

 

 あんみつべーっだ! 「それはかつて井伊の大獄で処罰された公家大名の赦免と、公武合体・幕政改革の推進ですね。とはいえ久光にはさしたるビジョンはないので、大久保がその任に当たります。五月はじめには岩倉具視と会談。のちに明治政府の両輪となるふたりの初対面です」

 

 しらたまオバケ 「ここで岩倉は、勅錠に攘夷を盛り込む小細工を弄した。公家の中にも排外的な考えを持つ者が多いからね。それでもいちおう大久保の目的は達したから、そのまま薩摩勢は勅使・大原重徳(しげとみ)を護衛して江戸に向かい、六月、大久保は生まれて初めて幕府本営の地を踏む」

 

 あんみつシラー 「大原重徳は幕政改革の勅命を17歳の将軍・徳川家茂に授けました。外様大名が兵を率いて江戸の将軍に意見するなど前代未聞です。でも幕府は不幸にも、かつて阿部正弘に抜擢された俊英たちが井伊直弼の大獄によって排除され、得難い人材を失っていました。とても薩摩の威圧を跳ね除けられません」

 

 しらたまオバケ 「安藤信正はすでに失脚していたが、首相は板倉勝静(かつきよ)で、小笠原長行(ながみち,明山)が輔弼してなんとか開明を保っていた。大久保は大原を後押しして説得に奔走、ついに幕府は勅命受け入れを決定する」

 

 あんみつ得意げ 「越前藩主・松平慶永(春嶽)を雄藩の盟主として政事総裁職に、一橋慶喜を将軍後見職に、というものですね。大久保は斉彬の悲願成就、公武合体の達成と喜びました。でもなんだか、行動に比べて改革の中身はうすっぺらな感じ。徳川の一族を幕閣に加えただけなんですから。それを薩摩の手でやったことが嬉しいんでしょうけど」

 

 しらたまオバケ 「そのとおり、松平春嶽も一橋慶喜も、結局は期待先行というか、過大評価でしかなかったわけだからねぇ。ともあれ公武合体の目的を果たした島津久光一行は、大原を送るため揚々と京都に向かう。ところが、この旅でまたもや大騒動を起こした。生麦事件だ」

 

 あんみつガーン 「文久二年(1862)八月二十一日、東海道で生麦村(現:横浜市鶴見区)にさしかかったとき、イギリス商人の一行4人が馬で久光の行列に近付いてしまい、無礼討ちとしてチャールズ・リチャードソンが刺殺された惨事です。彼らは川崎大師を観光した帰りで、マーガレットという女性もいましたが、まさかこんな事件に遭うとは思わなかったでしょう」

 

 しらたまオバケ 「事件は横浜の居留地から領事館に伝えられ、騎馬兵や軍艦が出動する大騒ぎとなった。英行使代理のジョン・二ールは幕府に対し外交ルートで謝罪を要求したが、久光一行は無視して京都に向かう。これがのちのち禍根を残すとは思わずに」

 

 あんみつプンプン 「事件は皮肉にも、<薩摩による攘夷決行> として世間の大喝采を受けました。薩摩の公武合体運動は攘夷否定であったはずなのに。閏八月、帰京した久光一行は、長州や土佐の尊攘派志士が幅を利かせ、排外主義で暗殺・放火が日常茶飯事となった京都の政情に愕然とします...」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 島津斉彬の意志を継いだ幕政改革が目的であったはずの島津久光の薩摩~京都~江戸の旅は、血塗られた惨劇に彩られる予想外の結果となりました。

 

 次回は薩英戦争、文久京都の政変など。

 

 

 それではごきげんようオバケニコニコ