*2月22日付記事 の続きです。

 

 

 R大学文学部史学科の院生・あんみつ君ニコニコは、今回は近現代史のしらたま教授オバケとの歴史トークで、テーマは大久保利通です。

 

 本日は、薩藩公武合体運動 のおはなし。

 

 

 

 

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 あんみつ得意げ 「しらたま先生、安政七年(1860)三月三日の桜田門外の変で大老・井伊直弼が討たれ、幕府は新たな首相・安藤対馬守信行(信正)の主導で、大獄から穏健路線に急旋回します。京都朝廷との緊張を解き、協力体制を築くための象徴が、孝明天皇の妹・和宮親子内親王の、十四代将軍徳川家茂への降嫁です」

 

 しらたまオバケ 「降嫁自体は、井伊直弼が画策したことではあったが、大獄で震え上がった公家社会にしても、敵対関係を収めたい幕府にしても渡りに船だった。江戸時代の皇女はとくに人権がなく、結婚をせずに尼となって一生を終えるのが常だったから、政略の道具となった和宮は数奇な運命と言える。ちなみに公家から降嫁を強力に推進したのが下級公卿の岩倉具視で、ここから彼は維新の舞台に登場する」

 

 あんみつむっ 「おりしも、開国と欧米交易によって輸出物品が不足し、金流出によって農産物も暴騰、ハイパーインフレを引き起こしました。下級武士や庶民は外国人を憎み、開国に反対する思想の根拠を尊王に求めます。ここに <尊皇攘夷> なる暴力的排外運動が時代の空気となる物騒な世となりました」

 

 しらたまオバケ 「日本国内の不穏を察した欧米の外交官や軍人の中には、開国が撤回され戦争が起こるかも、との予想すら起きた。危機を打開しようと、まず長州藩の直目付・長井雅楽時庸(うた・ときつね)が 『航海遠略策』 を建白、つまり海外に雄飛して国威を伸ばすことこそ真の攘夷である、と開国と攘夷を両立させる主張をした」

 

 あんみつべーっだ! 「この考えは、かつての島津斉彬と共通するものがあります。大久保は幕府・朝廷に歓迎されて名声を博した長井に共鳴し、島津久光を奉じて京都に進出、公武合体を推進する運動に着手しました」

 

 しらたまオバケ 「久光は準備のため藩人事を一新、寵臣の中山尚之介の主導で小松帯刀と、精忠組から大久保に御小納戸(≒官房長官)の肩書きを与え、事実上藩の実権を託した。このとき久光から “大久保一蔵” の名をもらい(これまでは正助)、32歳にして薩摩藩のキーパーソンとなる」

 

 あんみつシラー 「大久保の目的は、久光が薩兵を率いて入京し、朝廷の権威をバックに幕政改革を提言、譜代外様を問わない雄藩連合が幕府を支援しようというものでした。かつて斉彬がやろうとし、直前で急死してしまった計画とほぼ同じです」

 

 しらたまオバケ 「しかし、反対意見が続出する。大獄の悪夢がまだ新しい京都の公家が怖気づいたうえ、そんな直接運動を幕府が容認するはずがない。藩内でも保守派が妨害してくるし、精忠組の中でも有馬新七、有村俊斎ら武闘派は、入京を決起のチャンスと受け止めていた」

 

 あんみつにひひ 「そこで大久保は、奄美大島に隠棲する西郷吉之助を召還し、藩内の調和を図ります。西郷は派閥を問わず、薩摩藩士みんなに信望がありますから。久光も斉彬が信頼し、絶大な声望を持つ西郷という人物に興味を示しました」

 

 しらたまオバケ 「文久二年(1862)二月、西郷は3年ぶりに薩摩に帰ってきた。ところが西郷は久光が斉彬を暗殺したと思ってるから憎しみに凝り固まっている。大久保に会うや怒り心頭で入京計画に反対し、久光には面と向かって 『斉彬公がなさるならともかく、ジゴロ(田舎者)のあなたでは荷が重うござる』 と罵倒したので、当然ながら久光は激怒し大久保は呆れ返った」

 

 あんみつえっ 「でも薩摩公入京予定のニュースはすでに各藩の志士をどよめかせています。肥後の宮部鼎蔵、久留米の真木和泉に長州の来原良蔵などが同道を申し出てきました。もはや引くに引けない状況です」

 

 しらたまオバケ 「大久保は西郷に会って説得した。西郷のいない3年間で時勢が変わったこと、今回の計画が頓挫したら各藩の志士が暴発し、収拾不可能になること...西郷はいちおう九州の志士との連絡係だけは引き受けた。文久二年(1862)三月、島津久光は1000人の薩摩兵を率いて鹿児島を進発。全国の尊攘派は沸き立ったが、大久保にしたら爆薬を抱えて旅する心境だったろう」

 

 あんみつしょぼん 「尊攘派の目的は、薩摩兵入京に乗じて京都所司代や佐幕派の公家を襲撃し、久光を決起の旗頭にして攘夷を決行、開国を撤回することでした。長州の久坂玄瑞、土佐の吉村寅太郎らが同調しています。西郷は志士統制のためと称し、無断で京都に行ってしまいました。久光を担ぐ気はないけど、浪人のテロでは意味がないとは考えていたようです」

 

 しらたまオバケ 「久光はジゴロ呼ばわりしてきた西郷を信用していない。中山や有村も西郷の態度に激怒していたので、命令無視を理由に西郷の厳罰を決めた。大久保は自ら西郷に会って服罪を求める。自分の責任だから一緒に刺し違えて死のうと言った、なんて話もあるが、大久保は簡単にあきらめるタチじゃない。西郷は月照との心中を生き延びて以来、命を大事にするようになっており、ふたたびの機会を期して罪に服すことにした」

 

 あんみつショック! 「西郷は徳之島、ついで沖永良部島に遠島となりました。大久保も西郷推挙の責任を取って謹慎しますが、久光は大久保のことは頼りにしていますから、すぐ出仕するよう求めています。西郷と大久保が留守にしていた京都で、薩摩藩はとんでもないことになっていましたから...」

 

 

 

 

 

 今回はここまでです。

 

 斉彬の悲願でもあった、京都での一大デモンストレーションを実行した島津久光と大久保一蔵。しかし公武合体運動の裏ではさまざまな思惑がうごめいていました。

 

 良かれと思い、呼び戻した西郷は久光とソリが合わず決裂。大久保自身も策に溺れたように、以後ピンチが連続していきます。

 

 次回は寺田屋事件、生麦事件など。

 

 

 それではごきげんようオバケニコニコ