生業になろうがなるまいが無心になれることがあれば幸せ | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
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 マズローの五段階欲求説の五段階めは「自己実現欲求」となっている。

 その解説文についてはネット上でもいろいろと拾えるが、次のようなひとくだりに接して腑に落ちた。

 それは、「日常で、時間もプライドも忘れるほど何かに没頭する機会を持つこと」というものである。

 没頭できる対象は自分が見つけて行けばいいものである。他人様に指図される筋合いのものではない。

 

 これに関連して、かつて放映されたNHKの「最後の講義」を思い出した。建築家の伊藤豊雄氏の回である。

 氏の講義後、会場から質問時間があったのだが、その中で一人の10代が次のような質問をした。

 「先生のようにひとつの分野、仕事で大成するには、今からどんな心がまえが必要でしょうか」

 これに対して、氏は答えた。

 「自分はこんな風に大成したいなどと考えたことは一度もない。その時その時に親や先生の言うことなどは聞いたふりをして、自分の好きなことに没頭したらいいのじゃないですか」

 

 まったくもってその通りだと思う。

 その好きなことが生業になれば幸せだろう。しかし、生業にならなくとも幸せである。

 いや、生業にしてしまった時点で、あれこれの不自由が始まるかもしれない。むしろ、生業にしない方が自由であるかもしれない。

 まあ、退職組で前期高齢者直前の自分は、すでに何をやっても生業にはならないし、そこまでの根性などないから、どうでもいいのだが。

 

 「自己実現欲求」の前段階は「承認欲求」である。

 SNS症候群の人々は、この段階で充たされず逡巡するという傾向を持っていると思われる。

 しかしながら、そもそも今時の社会的承認そのものが一面的であり、しかも機能と効率というモノサシで測られた歪み切ったありようなわけで、そうしたありようから脱して、自分という人間を丸ごと総体として全面承認してくれる場などあるはずがない。

 そこにまたスピリチュアルだの自己啓発だのがつけこむのだろうが、つけこんだとしても、その「お花畑」状態が続くはずはないのである。

 

 だったら、好きなことに没頭すればいいのである。そこには「承認」など初めからいらない。みみっちいプライドなど吹き飛んでいる。

 「無心になれる時間こそ幸せ」と語ったのは、NHK「教えて先生」で子どもから「幸せって何ですか」という質問を受けた時の養老孟司の答えだった。

 

 我が身を省みれば、好きなことに没頭する時、できるだけ他人様を必要としないように心がけたい。必要とする分だけ、当の他人様だって煩わしいだろう。

 トライクでのソロツーリングは初めから他人様はいらない。

 独り芝居は、今のところ、二人の協力をいただければ充分である。

 

 その意味で言えば、他人様との接点はできるだけ少なくする、ということが前提になるだろうか。

 好きなことに没頭することは、豊かな独り時間を持つことでもあるのだ。

 そのことに改めて気づいた次第である。

 

 

    ※関連文献  諸富祥彦『孤独の達人』