恐山の禅僧によるメッセージ 南直哉『苦しくて切ないすべての人たちへ』 | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
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 しばらく前の新聞の書評ページに紹介されていたのを読み、これは買っておかなければと強く思った。

 恐山菩提寺の禅僧である著者は「はじめに」で、本書のこのタイトルにかなり抵抗したと書いている。タイトルは編集者の提案だった。

 しかし、私はこのタイトルに魅かれて買い求めた。

 私自身は「苦しくて切ない」毎日を送っているわけではない。どちらかといえば、かなり能天気で楽しいことばかり考えている。  

 だったら、なぜ、このタイトルに魅かれたのか。

 「機能と効率」が支配する現今の経済システムが現在進行であらゆる人間の情を押しつぶしていることは疑う余地がなく、「苦しくて切ない」状態にまでは、とりあえず追い込まれていない自分が、それでもそうした人々と部分集合でつながっていることを実感し、確信しているからである。

 著者は、その意味で、圧倒的多数(であるはず)の弱者に呼びかけている。

 書評でも、すべてを「自己決定、自己責任」論で切り捨てる「馬鹿者」への抗議が明言されていることを紹介していた。

 

 なお、本書は連載ものだったらしく、その連載時のタイトルは「お坊さんらしく、ない」であり、これにも著者は抵抗したと書いている。「お坊さんらしく、ない」もいい。ふんわりとして。

 その「らしくなさ」は、至る所で触れられている。

 お坊さんになる前も、著者はこれまで常に周囲とのズレを実感する日々だった。この自己開陳には思わず共感してしまう。おそらく誰もがそうなのだ。完全適応している人間の方か珍しいし、おかしいのだ。

 周囲と自分は常にズレしているし、当然ながら理想と現実もズレている。思ったように行くことなどめったにない。

 

 「プラス思考」についても痛罵に近い批判が記される。

 「当節では『成長』も『認められる』のも、それを計測する『ものさし』は儲けと稼ぎ、すなわち金である」と明言している。

 紹介されている一例は、著者が喫茶店で耳にしたサラリーマンの会話の一端なのだが、更に「私の売りはですね」と言わなければならない「個性」の市場化という問題にも論及される。

 「市場は『閉まる』ことがある。ならば、我々も頭の『市場化』を止めるべきではないか」と提言する。

 そもそも「個性」などというものは、同じ人間である以上、大して違わないはずであり、いたずらに強調することそのものが愚かである、と指摘する。(ここは正確な引用ではない。)

 

 それにしても、「プラス思考」汚染(?!)は、今時、あまりに広がりすぎてはいないだろうか。

 私は先日、「脳科学」のハッシュタグをつけて駄文を弄した。ただし、「科学的根拠」を紹介しながらの駄文だった。その「脳科学」で一体、他のブロガーはどんなことを書いているのか、少々気になったのでたぐってみた。結果、「一人宗教」に終始する手合いのスピリチュアル系ブログばかりで、ゲンナリした。

 どんなに思い込み、幻想の上に幻想を重ねたところで、現実は変わらない。自分都合の解釈を何層にも塗り込んだところで、見えて来るものは何もない。

 しかし、そこまで、自分の目を見えなくさせなければ、現実は乗り越えられないのだろう。

 この問題群のありようから、私は直ぐにある「事実」を連想した。

 「自動書記」という、トンデモ体験をしたと告白したある翻訳家のことである。その翻訳家の直近の結論(もしかしたら、何某かのモノから受けた「啓示」だったかも知れない)は、「歌って踊って楽しみなさい」だった。それを自分へのメッセージに留まらず、今時の人々に対する、少なくとも読者すべてに対する人生の指針であるかのように記していた。

 私は、この部分を本屋で立ち読みしていたのだが、肩が揺れる程笑いが止まらず苦労した記憶がある。

 

 

 本書の最後「命の種 『あなたがそこにいてくれるだけでいい」は泣けた。

 著者の師であるお坊さんが、戦後まもない頃に連れ帰った三、四歳くらいの戦災孤児のことが書かれている。それまでも何人かを引き取って育てていたらしのだが、今度のその幼い子はずっと小刻みに震え続けていたらしい。その子を見た妻は三日三晩抱きしめて添い寝してあげた。彼はその後、貧しい師の家庭ゆえ高校に入れず、しかし、当たり前のような顔をして就職した。成長した彼は商売を始め、成功し、温かい家庭も築いた。

 彼は血のつながらない母が、あの時「だいじょうぶだからね」「元気にがんばろうね」と抱きしめてくれた体験を支えに生きて来たようなもんだ・・・と後日、血のつながらない父に言った。 

 

 更に著者は国政について言及している。

 「子育て支援」などと、尊大で悠長な言いぐさでごまかすような話ではない。社会・国家は「親」同様、「子育て」の完全な当事者である、と。

 

 つまり、幼い戦災孤児を引き取った師夫妻の「過去の美談」で締めくくってはいないのである。

 現在進行の市場最優先社会システムに対するブレない視点がそこにある。