『圓生の録音室』の冒頭に書かれていたあの名人三遊亭圓生の姿が時折、記憶に蘇る。
正確な引用ではないが以下。
晩年期にさしかかっていた圓生は当時マンション暮らしだった。著者は奥さんに導かれて圓生の部屋に入って行くのだが、圓生は背中を向けたまま何やら熱心に手仕事をしている。
何をしているのかといえば、広告を裏返して半分に折り、その端に穴をあけて手製の帳面を作っているところだった。当時、広告の印刷は表のみで裏は白のままというのが一般的だった。
戦中戦後は別にして、この時期の圓生は押しも押されもせぬ名人であり、当然のことながらやりくりが大変などといった生活ではなかったはずである。
それでも、自分の手許にある広告は捨てず、再利用して閉じ、帳面にしていた。
ついでに言えば、高校時代に落語研究会を立ち上げて熱心に落語をやっていた私にとって、当時の大看板は圓生、次いで小さんだった。なお私の高校時代は昭和50年からの3年間である。
圓生が手製の帳面を作り、使っていたというこのエピソードを思い出す時、私は身体のどこかを針でつつかれたような気分になる。
物を大事に使い切るという生活になっていない自分のだらしなさに恥じ入ってしまう。
しかし、このエピソードを思い出したある時から、新聞の切り抜きを貼るために未使用のコピー用紙を使うのはやめた。片面が白の印刷物だろうが両面とも印刷がされた広告だろうが使うことにした。それで何も問題はない。
物を大事に使い切るという生活をしているかどうか。
それは衣食住にわたって、あらゆる場面で自問して行くべきだと改めて思う。
つい最近、セブンイレブンで買うワンドリップ式のコーヒーが切れた。しかし、同じセブンで買ったティーバッグの紅茶はある。
これまで、私はまず朝にコーヒー、午後のひととき紅茶もしくは緑茶(これもティーバッグ)、夕方は気分次第でいずれかという使い方だった。で、緑茶が二番手になる。紅茶は美味いと思うが二の次どころか三の次である。
だからコーヒーが切れたら、緑茶や紅茶があっても、まず買いに行く。
しかし、それをやめてみた。
朝一で紅茶を飲む。悪くない。ついでに言えば、沖縄黒糖もひとかけら入れるのだが、これも切れそうだ。
ならば黒糖なして飲んだっていいのである。
スパゲッティ、そばは切らさないように買っている。
しかし、どうしても私はスパゲッティの方を多く消費する。そばは、めんつゆが無い場合、つゆを作らなければならない。スパゲッティの方が出来合いのソースに何か野菜の一品二品を添えればいい。それでスパゲッティ優先になっているのだが、そばも切れるまでスパゲッティも買わないことにしよう。そばもしっかり味わう。
いや、実にどうでもいいことなのだが、私が「物を大事に使い切る生活」をしていくためには、そんなことから始めて自分に小さな変化を起こしていくことが必要なのだ。
ジーンズは綿100%という品が減って来ている。
そこで起きる問題の一つは化学繊維が混じった衣料は土壌に還元できないという点らしい。
しかし、その事実は私の頭の上を通り過ぎてしまう。
ジーンズは何年も履くが、どうしようもなく傷んで来たら「衣類と紙類」のゴミの日に出すだけなのだ。
そこまで考えて処分などしていない。
しかし、少なくとも自分の生活の中で再利用を考えるべきだ。
ジーンズはそもそも厚地のものが多い。綿100%でない場合もそれなりに吸水性にすぐれているという実感がある。それならば雑巾に再利用することくらいは出来そうだ。
裁縫が苦手だからまったく針と糸を使わないとしても、裁断して布切れにしたものをせめてトライクを磨くためくらいには使えるだろう。100円ショップで使い捨てのグッズを買い続ける必要はない。
散財しないことの心地よさは少しずつ実感している。
昨日のソロツーリングはガソリン代586円、道の駅での昼食代440円で1000を超えてしまう結果で残念だった(笑)。
物を大事に使い切る、散財しないことでこれから起きる自分の小さな変化も大事にしたいと思う。
※関連文献 京須偕充『圓生の録音室』