退職して9カ月が過ぎました・・・  | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
人生をゆるゆるのびのびと楽しんで味わって行きたいと思う60代です。

 勤め人の頃、地元の駅ビルの書店で『ヨーロッパの美しい路地裏』と『世界の路地』を続けて買い求め、しばらくの期間、通勤電車の中で熱中して眺めていたことがあった。

 それは「ここではない何処かへ」行きたいという、やむにやまれぬ感情を転化させるためだった。

 今は、そうした感情はない。機能と効率にがんじがらめの身ではなくなったからだ。

 行きたいところがあれば、条件を整えて、行くことが出来もする。

 

 その「行きたいところ」があちこちにあるものの一つはトライク・ソロツーリングである。

 昨日、甲州市の道の駅甲斐大和までの往復で250㎞程走り、総距離は3350㎞程となった(正確には記憶していないが、そんなところだと思う)。トライクが届いたのは昨年の9月20日で、本格的に乗り始めたのは10月だったから、5カ月間乗って来たわけで、月平均で670㎞程になる。月1000㎞も走っていないが、お楽しみはこれからである。

 

 ところで、へぼ短歌は、あれからまた凝りもせず練り直してみた。

 「稚児の手に 捕まらぬまま 花屑は 舞い舞い舞いて 空に消えゆく」

 としてみた。 相変わらずへぼのままだが、頭の体操になるし、面白い。編集メンバーになっている地元ミニコミ紙の「文芸欄」が、私の四コマ漫画との隔週掲載なのだが、ほぼ常に川柳、俳句、短歌が足らないアンバイなので、載せてもらえそうである。

 ついでにもうひとつ。

 「とりどりの 人の思念や感情を 春一番が かっさらいゆく」

 これも春を詠んでみたものだ。

 

 機能と効率からは縁を切ったことは確かなのだが、ならば、今の自分は「予測不可能」な何かに心踊らせているだろうか、という自問をしてみる。

 今時、怪談が季節を問わず好まれるのは、私たち自身の暮らし、周囲、世界が「予測可能性」ばかりに陥っているからではないか。怪談はそこに風穴を開けてくれるのだ・・・といったことをしばらく前に、書いた。

 そう言う私自身、怪談が好きで、三木大雲和尚のYouTubeチャンネル他、気分で色々と漁っているのだが、どうやら最近、その怪談も「予測可能性」どまりのパータンの読めてしまうものや、明らかに下手な作り話でしかないものにでっくわすようになった。

 怪談もヒヤヒヤドキドキではなくなってしまうのだ。

 

 ならば、自分で自分のために「予測不可能」な何かを始めればいいのだ・・・ということになる。 

 そもそも個人的体験である以上は、ささやかな、実にささやかなモノ、コトことであることははっきりしている。

 ただし、自分の何かが変わり、新しくなるモノ、コトでもあるだろう。

 同時に、それらはオカルトであってはいけない・・・と自戒する。

 

 いやあ、というのも、何だか、あれこれと他人様のブログの一部をお訪ねすると、スピリチュアル絡みがずいぶんとあるのだ。

 例えば、様ざまな他人との出逢いうんぬんについて書かれていて、それらの「事実」はおそらくウソではないのだろうが、その背景に「見えない力」だの何だのがどうのこうのと続く。

 あのですね、見えない力だのソウルメイトだの魂の何だの波動だの、その他ああだこうだを心理的根拠にするのは、とりあえず一般化されなければ構わないんでしょうが、それって、ひたすら自己満足度を上げるだけのものなんじゃありませんかねえ。

 使えば使うほど意味不明になって来そうな危なっかしい語句を使わなくても、日本人は少なくとも前近代から「縁」という言葉を使ってきたじゃありませんか。異なもの味なものなんですから。そりゃそうでしょ、一人の人間の内面世界なんて自分でだって整理して方向づけすることそのものがとんでもなく難しいんですから。そうした一人として同じじゃない思念、感情を持つ人間が二人居合わせるだけで、「予測不可能」なことも生まれるはずですよ。

 だから、オカルトに走ったり溺れたり依存したりなどしなくても、充分、自分というニンゲンは不思議なはずですよね。

 

 そうなんですね。

 「予測不可能」なモノ、コトを見いだせるかどうかは、自分のニンゲンとしての未知なる部分と可能性を感じられるかどうかなんですね。

 マヌケにも改めて今更気づきました。

 機能と効率から縁を切った60代のオヤジが、自分自身に「予測不可能」なニンゲンを見出させるか、それがこれからの課題です。