鏡花作品には、凄絶にして熾烈な情念を抱く女たちが多く登場する。
それは当然なのだ。なぜなら、常に父権制の強圧にさらされ、時には圧殺されるほどの危機に陥るからで、それをはねのけるためには凄絶にして熾烈な情念を持たざるを得ない。
そうした女たちや、もしくは女たち絡みの怪異に出くわすのは、何だかヌーボーとした男たちばかりである。
私は、これまで「弱きもの、汝の名は男なり」とハムレットのセリフをもじって、鏡花作品中の男たちを見立てたことがある。
男たちがあまりに脆弱なのである。
なぜ、そうなのか不明だった。
しかし、橋本治の『父権制の崩壊・・・』という本と出合って、初めて謎が解けた気がする。
様々な怪異に出くわし、その一端を感得するためには、父権制というシステム総体とは無縁な男でなければならないのだ。
橋本治は、今時の権力者たちを「説明能力が無い」と断言する。内向きの、組織内にしか通用しない言葉だけを繰り出すだけの者たちと見る。
その視点は鏡花作品中の権力者たち、父権制の権化のような連中、更には父権制という虎の威を借りる狐(どころがクズ)たちを見る場合も有効である。
組織内、権勢内に通じる言葉しか持てず、頭も働かず、能力もない。外の世界などまるで理解できないのである。
そもそも怪異とは何かと言えば、まるで予測不能の、外の外の世界で起きることであって、その外の外の世界との接点が持てるのは、父権制のシステムから降りてしまっている男たちなのだ。
だから、脆弱ではあるが、善意ある男たちである。父権制という名の鎧もまとっていない。
ヌーボーとしていて当然なのだ。
世の汚れを知らぬ少年は、実は父権制にまだ浸かったりなどしていない存在であり、悪意ゼロの存在だからこそ、怪異と触れ合えるのである。
成人後の男たちが怪異と触れ合える条件は、例えば絵師だったり、何かの技師だったり、教師だったり、いずれも立身出世に血道を上げるような手合いではない。そんな連中は往々にして無為無目的の散歩の途中に怪異と遭遇することがある。彼らの佇まいとその周囲には父権制のかけらもない。
私が、そうした男たちをあまりに脆弱と見たのは、ゆゆしき事態、現状をこれっぽっちも打開、変革できないからなのだが、考えて見れば、それを期待する方がおかしいのである。
ヌーボーとして生きている男たちに父権制は敵対して、圧殺しにかかることはないのだ。
父権制のシステム総体がすでに見捨てているのである。システムにとって、どうでもいい存在なのである。
彼らも、他人を蹴落としてまで立身出世を成し遂げようなどとは思っていない。
しかし、と言うべきか、だからと言うべきか、圧殺されるかも知れない女たちこそが命を懸けてゆゆしき事態、現状を打開、変革してゆくのである。
もしくは、父権制というシステム総体から自由な、全くシステムの力が及ばない世界へ飛ぶのである。
三島は、鏡花を「死ぬまで快活だった」と評したことがある。「どこかへ連れて行ってくれる唯一の作家」という賛辞も捧げている。
それは、言い方を変えれば、虚無にも陥らず、自閉的にも退廃的にもならず、解放的な世界を描き続けたということだろう。
その対極には、父権制という絶対的な現実世界があったのであり、鏡花は常にそうした現実世界に「対抗する世界」を描き続けたのである。