いつのまにか左手の親指にあかぎれができていた。
いや、カッターかハサミで少しばかり突っついたのじゃあないかと思い直したのだが、やっぱりあかぎれである。
それで改めて気づいた。この冬は去年までと違って炊事をそれなりにやっているのだ。飽くまでも、それなりである。
ワセリンを時々塗れば改善する程度のものである。
そうなのだ。
朝昼夕それぞれの時に、カミサンが留守で、しかも台所に洗い物が少々溜まっていれば洗って片付けている。
今のところ、カミサンからは文句を言われていないので、とりあえずは及第点なのだろう。しばらく前にシンク周辺が「泡だらけ」と指摘されたことがあったので、注意するようにしている。
料理も相変わらず適当にしている。
味付けはしょうゆ・酒・みりん、または味噌の和風にするか、それとも中華だしか、鶏がらスープの素か、あるいはハーブソルトかという、この五択くらいしかないし、作るものはスープか野菜を蒸したものの延長かという程度であり、ほめられたものではない。
それでも、それなりにやれることはやるようにしている。
つい最近、ある知り合いの夫婦のやりとりをカミサンから聞いたことがあった。
ある時、夫の方が外に約束事があり出かけて行くので、間に合うように「お昼ご飯を食べさせないと」とカミサンの方が言っていたというのだ。
私は大いなる違和感を抱いた。「食べさせないと」というのは幼児レベルではないか。
なぜ夫は自分で作って食べないのだろう。習慣もないから能力もないままなのか。
でもさあ、それって人間としてみっともなくねえかい?
何もなければカップ麺だって、コンビニかスーパーにあるパンでもいいじゃあないか。いや、実はそれもみっともないと私は思っているんですけどね。
自分で自分の食事をしっかり摂るというのは、人間の基本なんじゃありませんかね。
そう言う私は、味付けは適当ではあるが、切ったり煮たり焼いたり蒸したりして食事を作っています。
その人間の自分と周囲への神経の行き届かせ方が偽りなく現れるんじゃないでしょうかね、食事を作るという行為、姿には。
ところで、我が家のことだが、それなりにトイレと風呂のそうじは私の仕事になっている。ゴミをまとめるのはカミサンで、一階まで降りて持って行くのは私である。
とりあえず、家事全般にわたっても文句は言われてはいない。それなりにやっている程度だが、一応及第点ではあると思っている。
清水義範さんの本に『定年後に夫婦仲良く暮らすコツ』という一冊がある。
古本を注文したのは一昨年の八月だった。私より一回り上の清水さんがどんな風にカミサンと上手く生活しているのかと思って読んだのだが、小説ほど面白くはない。面白かったのは、実父の定年後数年のことを書いているくだりだった。それまで頼りにされ、一目置かれていた環境が忽然として消えてしまい、精神的な拠り処を失ってしまった実父が一頃やたら怒鳴り散らしイライラしていたのだが、やがて静かに落ち着き、精神的にも安定していったという様が紹介されていた。父は老いを受け入れたのだろうと清水さんは書いている。
今の私は、頼りにされたくもないし、一目なんぞ置かれることそのものが煩わしいからまるで違うのだが、世のおやじたちの一般的な定年後の姿が描かれていて面白かった記憶がある。
私にとって、定年後に夫婦仲良く暮らすコツは、なあんにもしないで一緒の部屋にいるなんて時間を持たないことである。これはもうカミサンだけでなく家族同士でも友人でも誰でもそうだろう。だから、改めて言うことでもないのだが、それでもギスギスしないためには必要最低限のことなのかも知れない。
まあ、そんなわけで、自分の手指に発見したあかぎれから、色々と自省含めて書いてみた次第です。