年賀状のやりとりというのはいいものなんじゃあないかと思うんですが | 恋着、横着、漂着 遊び盛りゆるゆるのびのび60代

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2年早く退職して機能と効率のタガを外すことが出来ました。
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 私が毎年出す年賀状の相手というのはせいぜい40人行かないくらいのものです。

 そのうちの10人ちょっとは年賀状でのやりとりしかない関係になっています。

 で、更にそのうちの一人からは昨年の年賀状に「これで年賀状は終わりにします」という宣言が書かれていました。いやあ、確かに安否確認し合うという関係でしかなくなっていましたから、形式的な物でしかないと言われればそれまでです。でもねえ、年に一度の安否確認程度の物だって、それはそれで意味があるんじゃあないかとも思うんですよ。

 

 私はと言えば、出す相手すべてに同文、同へたイラストを印刷した上で、一二行くらい個別に手書の一文を添えています。返って来る年賀状もほぼ同じで、中にはただ印刷文しかない物もあります。ちょっと味気ないなあとは思いますが、それでもどうやら元気に生きているらしいことは分かります。それで充分だろうと思います。

 

 これは以前にも書いたことですが、大学時代の旧友がある時からFacebookに「年賀あいさつ」を出すようになってから、年賀状の方はくれなくなりました。携帯ナンバーは知っているので、ショートメールのやりとりは出来るんですが、ほとんどしていません。別に用事はありませんからね。まあ、その程度の仲なんですよね。お互い、とりあえず元気に生きていればいいわけで。

 だから私の方も年賀状は送らないまま数年が経っていて、何かちょっとその旧友のことを思い出すと、Facebookを覗く時があります。あ、相変わらずつまんねえなあ、少なくとも俺には・・・なんて少々意地の悪いことを思って閉じます。

 

 昨年、年賀状でのやりとりしかしていないという間柄の知り合いに、その年の年賀状を送ったところ、宛名不明として戻って来ました。その相手からの年賀状は送られずに終わりました。

 しかし、何だか妙に納得もしました。彼とはもう30年以上、会ったことはなかったので。そうだよなあ、お互いただの他人だっていうことだよなあと。おそらく引越したのだろうけれど、その引越し先からは届かずじまいでした。

 ところが、今年、その当人から年賀状が届きました。

 引っ越していました。相変わらず、印刷文しか記されていない年賀状でした。しかし、元気に生きているらしいことが分かりました。印刷文のみではありますが、夫婦二人の名前がこれまでと同じように連記されていて、子どもは生まれていないようだということ、相変わらずディズニーシーの写真を背景にした印刷文で、しかも当人は写っていないので直近の風貌は不明ながら、ディズニーシーを依然として好きらしい、夫婦仲もいいらしいということが分かります。

 ちょっと安心もしたし、年賀状の意味はそれで充分ありますから納得もしました。

 

 私は年賀状を書く時、けっこう気合を入れて尚且つかなり楽しんで作っています。

 へたイラストも多少は上手く見えるように手描きした上でスキャンして縮小版を貼り付けます。毎年、こんな面白い事をやるつもりです、去年とはまた違ってね、いやあこの年で生きて行くとホント色々ワクワクドキドキですね・・・という気分で書いていくので更に一人で勝手にテンションも上がります。私にとっては、年賀状を書くということは「夢追いオヤジ」の一端を披歴することになっているんですが、まあ、それが相手にその通り伝わるかどうかは別問題です。

 そうか。

 それが自分にとって年賀状を書くという意味なんですね。

 だから伝えたい相手もそんなに多くはない。年賀状でのやりとりしかない相手もいる。でも、その年にそのことをぜひとも伝えたい相手ではあるんですよね。