50部を刷った四コマ漫画自家製本『遊び盛り ユルユルノビノビ 60代』は、キチンと売りたい、あわよくば売上金を秋の芝居の元手にしたい(そもそも秋の芝居は赤字の可能性が極めて高いので)と思っているので、謹呈は避けている。
そんな中で、数人の方には謹呈本として郵送した。
そのうちの一人から感想の返信を頂いた。
文中には、退職後の半年がリハビリだったのでは?という意味の労いの表現があった。
うーむ。リハビリかあ。そんなに深刻だったかなあと改めて思わされた。
ここで少々お断りしておきたい。
私が退職前まで働いていた職場は、劣悪な環境にあったわけではない。
仕事の締め切りはあってもノルマは課されたことはない。昼休みはキッチリ一時間保障されていたし、ほぼ定時に帰ることが出来ていた。それでも、行政との接点が常にある、行政管理下もしくはその延長線上の職務であったため、ミスは許されなかった。加えて、コンピューターシステムの一大転換の時期にも出っくわしていたから、ピリピリイライラ感は常につきまとっていた。
その仕事は七年間に過ぎず、配置転換前となる22年間は、生きた人間が仕事の対象で、実にノビノビと仕事が出来ていた。
ただし、その七年間が実に神経をすり減らす仕事だった。
「リハビリテーション」という言葉を検索すると、語源はラテン語とのことで、「再び適した状態になること」、「本来あるべき状態への回復」という意味になるらしい。
たしかに私は今、リハビリ中である。本来の自分に向かう日々である。
今日、岸田秀と町沢静夫の対談本『自分のこころをどう探るか』の一部を気まぐれに再読していた。
あとがきで町沢はこう記している。
「私たちは所詮、共感されることで心が癒されるのである」。
今の私は誰かに共感されたいとは思っていない。
そんなことより、世間の評価と関係のなくなった自分の今のありようをしみじみ心地よく感じている。北斎の「海女と蛸」好き勝手立体バージョンの追求の方がはるかに癒される。無心夢中になれるから他人の共感はいらない。
「共感欲求」をかなりこじらせたものが「承認欲求」だろう。
今時のSNS上のセルフ・パパラッチ現象はその典型である。もしくは、ナルシシズムもそこにつきまとう。私生活上のどうでもいいことをひけらかす根っこには、あたかも自分を芸能人やセレブとして見立てる心情がある。無惨である。
退職前、自分の退職後の暮らしについて思いを馳せたことがある。
もしかしたら、放っておかれると、大して誰も関わってくれないと、人恋しさが募り、矢も楯もたまらずに誰かに会いたくなるのではないか。そんな予想も少なからずあった。「共感欲求」「承認欲求」に突き動かされるのではないかと。
結果、退職しても、まるでそんなことはなかった。
逆に言えば、仕事をしていた頃の「機能と効率」のみに取り囲まれた身辺環境はそれほど病んでいたのである。
梅棹忠夫流に言えば「単能化した社会」の単能物としてしか自分は生きていなかった。
四コマ漫画自家製本の最後の四コマで、私は冬の枯草の上に寝転び、「浮浪雲になってみてえ」と呟きながらいつの間にか居眠りをしている自分を描いた。「浮浪雲」とはジョージ秋山のあの漫画の主人公である。
この本音、この憧れの心情は変わらない。
「単能化した社会」はそれほどまでに病んでいるのである。
本来の共感とも承認とも無縁な仕事と暮らしは人間を深く深く病んだ状態に追いやる。そうでなければ、安定しているはずの大人が「共感欲求」や「承認欲求」に走る必要などないだろう。
「分かってほしい」「認めてほしい」という欲求、衝動に突き動かされるのは、自分をまるで分かってくれていない、認めてくれていない仕事と暮らしの連鎖にがんじがらめになっているからである。
少々、えらそうなことを書き過ぎた(笑)。
実は、ここしばらく読書に熱中していない。なぜだろうかと考えた。
仕事をしていた頃は、毎日の通勤電車の中で読む本が必要だった。「機能と効率」に支配され、「単能化した社会」の中で、ひとときは、そうした病んだ環境から遠く離れた地点に我が身と心を置きたかったからである。ピリピリせずイライラもせず、陶然と出来るひとときが必要だった。そうでなければ日を送れなかったのである。
今は、そもそも、どうしても読みたいと思わなければ本に赴かない。
まあ、アニミズムと性愛については、何かを読んで、分析的に追ってゆくものではない。飽くまでも感覚を動員すべきものだから、このふたつについては今後も何かを読むことはほぼないだろう。
しかし、である。
どうしても読みたいと思う本があるかどうか。
それは自分を試すいい機会でもある。
ただ、病んだ社会から遠く離れた地点に身と心を置きたいためだけの読書しか自分に出来ないのか。実は、そんなことはないと高をくくっている。
そうなのだ(と改めて心底思う)。
今、自分は、本来あるべき自分を自分で確かめられる境遇にあるのだ。自分という人間の真価が試されるのは、これからなのだ。いや、何だかかっこよすぎるか(笑)。