昨日はイタリアの精神病院解体を描いた映画「むかしMattoの町があった」のことを書きましたが、今朝の朝日新聞の朝刊の一面の「制度外ホームで『拘束介護』」という記事に激しいショックを感じています。
精神障碍者も高齢者も…、人間の尊厳がどこまで守られているのか、
今の私たちの社会はいったいどうなっているのか、
そこで、もう一度昨日の映画のことを思い出しながら、今朝の朝日の朝刊の内容を振り返ってみたいと思います。
「むかしMattoの町があった」は、実在した人物であるフランコ・バザーリアという精神科医の精神病院改革の戦いを描いたもので、1961年、彼がゴリツィア県立精神病院の院長として赴任するところから始まります。
その県立病院は、たぶん他の精神病院もそうだったのでしようが、患者の自由や人権は完全に剥奪され、職員の横暴な管理のもとに支配と抑圧が横行し、自分たちの手に負えない患者は電気ショックや拘束で廃人同様にさせられているという「治療」が日常的に行われていました。
また、社会の人は精神病院が何をするところかもわからないまま、手に負えなくなった娘や夫を半ば強制的に病院に入院させることで家庭や社会から排斥していました。
映画の主人公の一人であるマルゲリータも、母親に強制的に入院させられた少女。
(映画の後でわかったことですが、マルゲリータは第二次世界大戦の中でアメリカ兵に輪姦されて生まされた女性、母親自身も深い傷を負っています)
病院では、鍵のかかった暗い部屋の中で、私物はすべて取り上げられ、素っ裸にされての身体検査。その後はわけのわからない水薬を強制的に飲まされて意識混濁状態に、意識が戻った時には長かった髪はバッサリと切られ、同病の女性患者に犯されそうになったのを跳ね返そうと暴れたために、院内の秩序を乱したという理由で、マスクで息のできないように顔を覆われたところに冷たいシャワーの水を浴びせられ、網のかかった拘束かごに入れられているところに、赴任したばかりのバザーリアがやってきます。
バザーリアは親しい笑顔で彼女に近づいていきますが、マルゲリータは激しい憎悪の表情でじっとバザーリアに目を向けたと思った瞬間、パッと唾を吐きかけ、無言の抵抗と抗議の意思表示をします。
それは、大学で教鞭をとっていたバザーリアが初めて体験した、教科書の中ではない、現実の精神病者との出会いだったのでしょう。
もう一人の主人公、ポリスは、15年間、ベットに手足を拘束されたまま、言葉も意思表示もできない状態にされていた巨体の男性。
(ポリスは大戦中の旧ユーゴで、ファシストとナチスに蹂躙されて家も母親も失い、自らも殺されそうになったときに橋の上から川に飛び込んで一命をとりとめたという体験の持ち主。そのトラウマがしばし彼を苦しめて発狂した)
職員が流動食を口に運んでいるところにバザーリアがやってきます。
室内には糞尿の強烈なにおいが充満(画面ではわかりませんが)しています。
バザーリアがその匂いを指摘すると、職員は彼を拘束している手足をほどいて、壁際に連れて行って、今度は壁につくられた拘束道具で体を固定すると、下着をはがします。
お尻にはべったり糞尿が…そしてシャワーの水が…両手を拘束されているので身動きができないままにポリスはおとなしく従う以外何もできません。
映画は、県立の精神病院の非道な姿を二人の患者への管理と抑圧の姿を通して描き出しながらストーリーは進みます。
当然、こうした精神病棟のありようを見たバザーリアは激しいショックを受け、病院改革への意欲を燃え立たせます。
その病院改革の一つの方法は、ともかく患者の意見を聞くこと。
アッセンブレアという全員集会で、一つのテーマを決め、それに対してみんなが自由に発言する。
はじめのうちのアッセンブレアは、まとまりも取り留めもない要求ばかりをそれぞれに言い合いますが、回数を重ねるにつれ的確なまとまりができてきて、それぞれが明確に意思表示をするようになっていきます。
この全員集会での意見を出し合う場面は、確か「カッコーの巣の上で」でもあったように思いますが、「カッコーの巣の上で」では自由な討論の場というよりも院内の秩序を保つための看護側の管理の側面が強かったように思います。(でもいくら管理的な面が強くても、何度か繰り返されていく中で、彼らの正当な発言が管理者側を窮地に追いやっていった場面でもあったと思います)
それに対して「マットーの町」では、患者の心の解放に有機的に作用する「治療」方法の一つとして、心の内が自然に吐露できる場面として使われていたのが印象的でした。
さらにとっても重要だと思ったのは、医師・バザーリアの患者に向き合う姿勢です。
彼は「医療側と患者は対等な関係」ということを大事にしていました。
ですから、制服はすべて廃止。言葉づかいも決して上から目線ではありません。
私は日本の今の精神病院の実情はよくわかりませんが、果たして医療側と患者の対等な関係はどこまで進んでいるのでしょうか?
そして、精神病院を取り囲んでいる壁も、患者と医師が一緒になって取り壊します。
みんなが自由に町に出られるようになったのです。
もちろん町の人たちは、精神病の人が町をうろうろすることに困惑したり、迷惑がったりします。苦情も後を絶ちません。
そんな中、ある一人の精神病の夫が外泊で家に帰った時、肉体関係を迫った妻に拒否され、いさかいになったはずみに妻が階段から転げ落ちて死亡するという悲しい事件も起きます。
するとメディアは競って、精神病者は怖いのキャンペーン。
窮地に陥ったバザーリアは院長職を解任され他ところで第1部は終わります。
他にも、挿話はたくさんあって書ききれませんが、監督(マルコ・トゥルコ)が言いたかったことは、人間が本来持っている狂気と苦悩を精神病の人の姿に重ねて描いているのだと思います。
当然ですが、狂気や苦悩はなにも精神病の人たちだけの占有ではありません。
私たちも深いところに、言い知れない狂気や、苦しみは抱えています。
そうした狂気や苦悩を抱えながらも、多くの人はそれを必死に内部にとどめて生活しています。
しかし、様々な人間関係や、経済的な問題や学業上の問題や職場でのストレスなどでその箍が外れたとき、精神の失調は起きるのだと思います。
ですから、精神病は特別の病気ではなく、だれにも起こりうる、起こってもおかしくない病気でもあるのです。
でも、私たちは精神病をともすると白眼視します。
何をするかわからない怖い人として…
映画の2部だったと思いますが、バザーリアが「狂気は一つの人間的条件で、心の中に理性が存在するのと同じように狂気も存在している」と述べていますが、私も本当にそう思います。
そして映画の最後のほうで、15年間ベッドに拘束され、廃人同様の状態に置かれていた巨体のポリスが、豊かな人間の感情を取り戻していく過程で、人間関係の折り合いがうまくつかめないままに何度も暴れに暴れて苦しみのるつぼに陥った時、バザーリアに「苦悩が人間をMattoにするのか、Mattoであることが苦悩を感じさせるのか」と問う場面があって、それに対してバザーリアは「それは自分にもわからない」と答える場面があります。
私は一般の精神科医ならばそうした質問に「わからない」とは答えないと思うのですが、この「わからない」というセリフの中に、精神病者の置かれている現状が凝縮されていると私は思いました。
苦悩が精神病の元凶であり、精神病の人への医療をはじめとしたさまざまに対応がさらに精神病の人の苦悩を増幅させている…
そして、そこに一つの答えを見つけた思いもしました。
それは、人間の苦悩を開放すること。
たぶん、今様々な地域で行われている支援もそして医療も、彼らの苦悩に真正面に向き合い、ともに苦悩を抱えている者同士として、よりよい関係を築くことから解放への道は開けるのではないかと…
映画のストーリを書こうと思いながら、また横道にそれてしまいました。
要するに、精神を患っている人たちが繰り広げる様々なドラマ、楽しい場面も悲しい場面もふんだんに盛り込みながら、精神保健の改革への道筋をひたすら求め続けるバザーリアの戦いの道筋を、中に職員側の苦悩も織り交ぜて描いているのが「むかしMattoの町があった」という映画です。
そしてバザーリアを中心とした改革派の働きで病院は縮小され、町の中にある24時間オープンの精神保健センターに精神病患者対応への機能は移管されます。
さらに1978年、イタリア中の精神病院を廃止する法律、180号法が国会で全員一致で採択され、成立します。
以後イタリアでは新しい精神病院はできなくなり、多くの患者が町に戻ってきました。
まあ、ずいぶん長々ととりとめのないことを書きました。
本当は事前にまとめて書けばよかったのですが…
頭の中には今朝の朝日新聞の記事のことが気になっていて、どうしても日本の姿と比べてしまい、長くなってしまいました。
ところで「制度外ホームでの拘束」の話。
制度外ホームというのは有料老人ホームとして自治体に届けの出されていない、いわゆる老人マンション。
新聞に載っていたホームは医療法人と連携したマンション業者が経営するものらしく、部屋代や食費、介護費、医療費を含めて月15万円でサービスを提供しているといいます。
もちろん敷金や入居一時金は不要。原則として医療法人の審査が必要だそうです。
その制度外ホームには160人のほとんどが要介護5か4の高齢者が入居していて、そのうちの130人に身体拘束が認められたといいます。
そもそも介護保険が導入されたとき、身体拘束は特別の場合を除いて禁止され、高齢者虐待防止法に抵触する恐れもあります。
ですから、ベッドを柵で囲んだり、終日車いすに乗せっぱなしにするのも拘束として厳しく指摘されてきました。
それなのにこのホームでは、ベッドに手足を縛り付けたり、外側から鍵のかかった部屋に軟禁状態に高齢者を置いたり、手が自由に動かないように暑いミトンの手袋をはめたり…その記事を読んでいると1960年代のイタリアの精神病院の様々な場面が交錯して仕方ありません。
自由に動き回ると転んで骨折や、必要以上に職員の手がかかるから、管理者側の「安全」のために拘束しているのでしょうが、拘束されている高齢者はどんな思いでいるか、人間としての感情が奪われるだけではなく、生きる意欲の低下にもつながる重大な殺人にも等しい行為であることを管理者は知らないわけではないと思います。
記事を読み進むと、そこには訪問介護のヘルパーも訪れていますが、一人30分のサービス時間の中で何ら人もの高齢者を順番に見ていて、拘束することに最初は罪の意識を感じながらだんだんとねそのことにならされていっている様子も書かれています。
そもそも制度外ホームに要介護4や5の高齢者が何百人も生活していること自体、貧困な制度を象徴していますが、高齢者の多くは特養などの行き場のない人たちなのでしょう。
これが高齢社会の一つの現実だとしても、このままで決していいわけがありません。
社会保険費に回すという名目で消費税も上がりましたが、そして今後ますます増え続ける高齢者介護への対応には難しい問題も多々あると思いますが、人生の最後に人間としての尊厳が踏みにじられる現実は何とも悲しく、重いことです。
そしてこれは、私にとっても、決して他人ごとではない問題。
今は体も元気ですが、これから10年先、20年先にはどこでどうして暮しているのか、
鍵のかけられた狭い部屋の中で、ベッドに縛り付けられている姿を想像すると…
いくら落ち込んできたとはいえ、経済的には世界第2位を誇る日本なのに、その恥部は、いろいろなところにさまざまに点在しているのですね。
阿部さん、株の値上がりばかりに目を注ぐのではなく、もっと社会の中で一生懸命に生きている人々にもしっかり目を注がなくてはいけないのではないかしら?
精神保健の分野では、いま、病院内居住施設なんていうわけのわからない施策が動きだそうとしています。
これとても精神障碍者は一生涯、病院内に置きと止めようというもの。
姑息に一部経営者の経済性ばかりを追求するのではなく、だれもが人間らしく生き生きと暮らせる社会を目指してほしいと思います。