昨日の続きです。
神山さんと私が共同監督として正式に委嘱を受けたのは今年の5月25日。
以後、私たちは、製作プロデューサーにお願いしたいと考えていたKさんも含めて3人でよく会っていました。
7月に入りシナリオ2稿が上がり、その検討会が7月20日から予定されていたシナリオ検討会に備えて、いつものように3人で新宿の居酒屋で会いました。7月17日です。
最初のうちは和やかな雰囲気で盛り上がっていましたが、シナリオに対して、私が思いを言い始めると、それまでは穏やかだった神山監督の態度か豹変し、話し合いどころではなくなりました。
というのは、神山監督はシナリオ2稿への評価が高く「今のシナリオは80点、細かいところの修正の必要があるとしても短期間でよくあれだけかけている」という意見。
それに対して私は、「今の非正規労働者の置かれた現実はもっと厳しいのに、その苦悩や喜び、葛藤が描かれてなく、内容の薄い観念的なシナリオになっていて、登場人物の描き方がステレオタイプ的で生きていないし、今日の経済格差やその現実にもっと切り込まなければ、ご都合主義の自己満足的な内容に陥る危険があり、人々の共感も感動も得られないのではないか」という厳しい意見を持っていました。
しかし、この席では、私の意見は途中までしか言わないうちに神山監督が「そこまで二人の意見が違うなら共同監督は無理だ」と怒り出し、さらに私が言おうとすると「もう話す必要はない」「大体生意気なんだよ」「ライターがここまで書ているのだからかき混ぜるようなことは言わないほうがいい」と、まるで恫喝とも思えるような非難を浴びせてきました。
あの時、なぜ神山監督が突然に怒り出したのか?
後でKさんと話した中の結論は、①80%OKという意見に賛同しなかったことで彼のプライドを傷つけたのではないか?
②それとも彼は早くシナリオにけりをつけ撮影に入りたかったのではないか?
③それでも私がしつっこく食い下がったので(言い方は穏やかでしたが)やりきれないという思いを持ったのではないか?など、いろいろと話し合いましたがその真意は今もってとわかりません。
そして迎えた7月20日からの合宿によるシナリオ検討会。
ゼネラルプロデューサーはじめ世話人の数人とライター、両監督、そして各地の推進会議の世話人など10数人が参加して2泊3日で行われました。(監督2人とライター以外は映画製作は初めての素人の方です)
私はこの検討会は、全員で討議する最初の貴重な場なのだから、当然、シナリオ全体に関する意見をみんなで述べあい、そのあと、細かい場面ごとの意見を出し合うのだろうと考えていました。しかし、実際に行われた討議は全体の構成に関しての意見交換はわずかで、あとはシナリオを頭から3つにくぎって各場面の細かい指摘など細部にわたる意見やセリフの言い回しなどに対する議論が中心でした。
というより、シナリオの方向性や全体の構成は既成の事実として、いうなれば、神山さんの80%OK容認論の中での議論に始終しました。
これはシナリオへの意見など初めての方たちにとってはやむを得ないことだつ佐多のかもしれません。
しかし私の考えは違っていました。
私が感じたシナリオへの一番の問題点は、今日の深刻な社会の一端さえをも切り取っていないリアリティのない予定調和の古い観念で書かれたシナリオで、感動性や共感が得られないばかりか、貴重なお金を集めて製作するのに値するものなのかどうか、そのことへの真摯な討議が本当に必要だと。
それがないまま80%OKで製作を進めるのは、あまりにも無責任な態度に思いました。それで私は、細かい場面ごとの修正議論よりも基本的方向性や全体の構成、登場人物の設定など、全体のイメージをさらに深める必要性を感じていましたので、そのことを熱心に提案しました。
そこで述べた内容は「登場人物の描き方が生きていないうえ、テーマの絞り方がプロパガンダ的でリアリティのないご都合主義の挿話があざとく、全体に観念的。特に、気になるのは主人公の妻の描き方で、耐えて忍ぶ女性を美化するのではなく、より自立的な女性として描く中で夫婦愛が出せないものだろうか」というものでした。
しかし、その場でも神山監督は私の意見を頭から否定。
私が何かを発言するたびに「だから何なんだ」「そんなことはないよ」にはじまり、「黙れ」「黙れと言ったら黙るんだ」という言葉も飛び出す険悪な空気が流れました。
そのため、私から見ると、とても内容の深まった検討会になったとは思えませんでした。
(もちろん皆さんはそれぞれの意見を真剣に述べましたので、各場面ごとの討議は深まったとは思いますが・・このシナリオ検討会でのことに関して、公式ブログでは宮崎は
今回、私に出された監督辞任の決議の「そもそもの根」は、既にこの時に始まったと「時の行路公式ブログ」には書かれていますが、それが今回の決議につながるかどうかは別として、その時は確かに80%OKの神山論と、シナリオの再検討が必要なのではという私との間に意見の相違があることは明確になりました。
(それは7月17日に既に明らかになっていましたが、公式に世話人会としての認識はこの時が初めてです。さらに、この部分に関しての公式ブログの記載は自分たちの正当性を主張するための都合のいい記載でしかありません。大体何のためのシナリオ検討会だったのか?皆さんはそんな次元で参加していたかと思うと残念です)
また、二人の意見の相違が「監督辞任の勧め」なる決議に「つながる根」と考えるなら、そのことに関してさらに詰めた話し合いがなされてしかるべきはずなのに、そんな話し合いは一度もありませんでした。
そして、そのシナリオ検討会での神山監督の私に対するあまりにひどい態度に、8月の定例世話人会では、女性陣の中から神山監督を非難する発言が出されたと聞いています。
しかし公式ブログを読む限りはそんなことには一切触れられることはなく、それどころか「(こんなに意見が違って)共同監督はやっていけるのか」との質問に「何とかうまくやっていくよ」と神山さんが答えたという公式ブログの記載。それを読む限り、さも穏やかの懐の深い神山イメージをアピールしているようなものです。
ともあれ、合宿のシナリオ検討会で出された意見をもとにライターは第5稿までの改定を重ねてくれました。
それぞれの改定稿に対する意見集約の場は世話人会では行われましが、私はすでに世話人ではなくなっていたのでよほどのことがない限り会議には遠慮していました。
ですから、私は、改定稿が上がるごとに世話人会はもとより、プロデューサー、ライターあてに、全体の意見と各場面・各シークエンスに関しての意見を文章にして送っていました。
しかし、それらが皆さんのところに届いているのか?皆さんがどこまでそれらを読んでいるのか、果たして会議でそのことが討議されたのか?それらに対する反応はどこからも全くありませんでした。
ただ、9月の世話人会だったと思いますが、80%OK論に対しては根本からの見直しを要請する厳しい意見が原作者から出されました。続いて各地の推進会議からもその意見に賛同する声が寄せられ、主人公のモデルからも、そして世話人会の中からも、細かいところでの意見の相違はあってもこのままのシナリオでは問題が多すぎるという意見が多く出され、全体に不協和音が広がっていきました。
そのため、第5稿の改定前に、私はライターとじっくり話し合う時間を持ちたいと連絡。
いつも厳しい意見しか言わない私にライターはよく付き合ってくれて、約3時間、それぞれに忌憚のない意見の交換をすることができました。
その時、私は、自分なりに映画化を想定した試案のシナリオの改定を重ねていていました。これは誰に見せるものでもなく、自分としての考え方をしっかりまとめておく必要から
書いてきたもので、まだ最後の場面をどうまとめるかの思案の最中でしたが、ともかく言葉で言うよりもより私の意見が具体的に、明確に伝わるのではないかと考え、もしライターが読むというのなら見てもらってもいいくらいの考えで持っていきました。
それをライターは「読ませてほしい」というので、「まだ不十分なものなので他の人には言わないで」と念を押し、そのシナリオを渡しました。
シナリオに関しては、現在のライターに書いていただくことに決まる前に、私は試案としての初稿を書いていました。
それは具体的なリサーチもないなかでの観念の世界で書いたシナリオ試案で、とても耐えられるものとは思えませんでしたから、その後、主人公のモデルになった方や非正規で働いている何人かに直接に会い、派遣会社を経営する友人にも意見を聴くなど私の中ではそれなりに考え方をまとめる中での改定を重ねる作業は陰ながら続けていました。
私が厳しい意見を言い続けてきた現シナリオは、私が最初に書いた試案を基本的なベースに、登場人物の設定なども部分的に生かしたシナリオになっていて、そこにライターのオリジナリティを膨らませています。
ですから、余計、私が考えていた意図とライターの作意のずれがどうも気になっていたことは確かで、私が求めていた一つはその整合性なのですが、それは最後まで聞き入れていただけませんでした。
(私自身も自分の観念にとらわれて、ライターの作意を正しくくみ取る努力が弱かったのかもしれません)
その後内部での不協和音は広がり続ける中で第5稿が上がりました。
そして開かれた10月31日のシナリオ検討部会。
この日の会議は、これまでの不協和音を調整し、作品の明確な方向性を探ろうという趣旨の
もとに、少人数の新たなシナリオ検討部会を発足させて開かれました。(と聞いています)
神山監督とは7月20日のシナリオ検討会以来の再会でした。(電話では一度話しましたが)
私は、シナリオに厳しく言うのは私一人ではなく、同じように厳しい意見がさまざまな分野からも出されていることで、これまでの80%容認論からさらに進んだ話が進むものと思って出かけていきました。
しかし、シナリオ5稿は、いくつかの場面に私のシナリオも取り入れ、直接お会いして話した時の意見も聞いてくれていましたが、最も重要な全体の流れというか、構成そのものにはほとんど変わりはありませんでした。要するにこの段階でも80%容認論は生きていたのです。
そこで私はそのことも含めて意見を言うと、神山監督が「そんなに不満ならば、自分で金を集めて自分でつくればいいじゃないか、いつまでもぐつぐつ言ってるんじゃないよ」と。(この時の乱暴な言葉も公式ブログでは紳士の言葉に代わってといます)。
脇からは座長でも司会者ではない世話人が「宮崎さん、意見は簡潔にお願いします」と、私の意見を遮る場面も。
私はそんなに長く話していたつもりも、司会者でも座長でもない彼女から発言を制止されるいわれもないので内心むっとしましたが、それをぐっと抑えて発言する内容をまとめていると、その世話人はスマホを手に事務局長を呼び出しては部屋の外に出て行ったり入ったり、何か緊急事態でも起きたのと思えるような異常な雰囲気がその場には満ちていました。
この時、神山監督が「宮崎とは一緒にやれないと」発言したといわれていますが、私には残念ながらその記憶はなく、それよりもこの会議自体が新しく出直したシナリオ検討会でしたので、より有効な話し合いをする場にしたいと乱暴な神山発言もぐっと胸に抑えて、臨んでいました。
しかし、実に不愉快な会議であったことは確かです。
そして、話は10月8日の「監督辞任の勧め」の決議に。
10月31日からこの日の間にいったい何があったのか?
それとも以前から宮崎排除の方向は決まっていたのか?
新たに出発したはずの会議がそうではなく、私を排除するための会議になるなんて・・私は想像だにしていませんでした。
そしてその後、神山監督が「自分をとるか、宮崎で行くか、新たに第三者を立てるか決めてほしい」と言ったことがきっかけで私への監督辞任の勧めになったということを「時の行路」の公式ブログで初めて知りました。
そもそも神山監督が共同監督である私を無視してそんなことを言うこと自体おかしなことだと思いますし、それを世話人会に議題としてどう図ったのか、その後の経緯はいまだに私にはわからないままです。
今から考えると、80%OKという神山監督の意見に賛同しなかったことが彼の心証を害して、あるいは、そのことに痛く傷ついて、「俺にたてつく生意気な奴」と私への憎しみを増していったのではないか、あるいは「シナリオはともかく早く仕事にこぎきたかったのか?」
神山さんは電話で話した時「宮崎さんは純粋すぎるから・・」といったことがありますが、私も、こと仕事に関しては一徹を通す人間として周りからよく言われていますので、そのあたりの彼の計算違いがあったのかもしれません。(共同監督提案は神山さんが出したものです)
女だからどしやすいというような・・それとも私を助監督か何かと勘違いしていたか?
常々神山監督は「自分は30万人の集客ができる人間」と豪語していましたが、彼から見ると私は監督ではなく添え物的な存在だったのかもしれません。
しかし、神山監督の私に対する態度は完全なパワハラ行為だと思います。
しかも世話人会では、このパワハラに何の抗議も(一度世話人会で問題にする発言があったとか)することなく、その矛先を私に回してくるのですから。
(世話人の女性は「夫婦げんかのようなもの」とケロっと言い放ちましたが・・)
先日のブログで書いた本人不在の場での非道な決議と、今回の神山監督の私に対する暴言や失礼な態度。
これが大手を振って許されるとしたら、世も末。
これまで事実を客観的に書いてきました。
神山監督に比べると劇映画の経験も30万人の観客を動員する力はないかもしれませんが、
40年以上監督として従事し、多くの人たちの喜怒哀楽・生きざまを見つめてきた者としての心からの怒りを表しました。
監督としての誇りと尊厳をかけて━
最後に・・・
現在のタイトル「時の行路・翼もがれても」の翼もがれてもの原案は私の発案です。
最初は「もがれた翼」で行こうとしましたが、これは東京弁護士会の人権劇で使われていることが分かり、みんなで討議した結果、今の「翼もがれても」に落ち着きました。
仮題ですので完成の時点でタイトルは変わるかもしれませんが、できたら使ってほしくはありません。
それから現シナリオの基本的構成は私が最初に書いたシナリオ試案をベースにしています。又、そこには原作には無い私自身のオリジナルの人物も登場させています。私の試案から活用している部分はすべてカットしてください。
また、シナリオ5稿には、先日お渡しした改定のシナリオ試案からいくつかの場面やナレーションが使われています。それらは全体の構成や流れの中でこそ生きるものですので、整合性のない使い方はしないですべてカットすべきです。
なお、私は新しいシナリオの改定稿が上がるたびに、それらに対する意見をかなり丁寧に書いて提出してきました。
しかし、多くの部分でそれらは取り入れられることはありませんでした。今後決定稿作成の過程で、もし私の意見が生かされたとしたら、それは私に対する二重の裏切りになります。著作権の問題もあると思いますのでご注意ください。