今日は名古屋に出張。
 出張というより、楽しみに言ってきたと言ったほうが正確かもしれません。

 実は、私の心の友的な存在の方の福祉施設の創立25周年の記念の集いがあったのです。

 その方は磯崎明美さん。

 名古屋市港区でみなと福祉会という障害者の施設を40数年前に立ち上げ、港区では知らない人はいないといわれるほどの肝っ玉母さん。ご自身も知的なお子さんがいらして、そのお子さが将来も安心して暮らせる場所をつくりたいと、同じ障害を持ったお母さんたちと運動に取り組み、現在では幅広く何か所もの施設を運営するまでに発展させてきました。


 私は、10年ほど前、あいち国際女性映画祭に私の作品が出展されたとき、知り合いの国会議員の紹介で出会い、どこかで波長がぴったり合った事から、その後もずっと親しくお付き合いをしてきました。


 肝っ玉母さんと言いましたが、ともかく凄い女性。
 でも、内面は繊細で、夫や家族おもいで、私の作品にもいつも力強い支援をいただいてきました。

 今日のお祝いの集いもそうした人柄がにじみ出ているような、暖かい雰囲気の中で、涙あり、笑いありの集いでした。

 開始が午前11時30分でしたので、出かける前に母の朝食と昼食の支度をして、新幹線で名古屋に。

 十分に余裕をみて出かけたのですが、着いたのは10分前。

 みなと福祉会の職員の皆さんとも、これまでに何度かお会いしていますので、すっかり顔なじみですし、保護者会のお母さんたちとも話が弾みました。

 隣の席は愛知教育大学名誉教授の田中良三先生。以前、つくば市で行われた全国専攻科研修集会のときにお目にかかっていましたので、共通の話題で、これも時間がないほどに話がはずみました。

 今日のこのお祝いの席には、名古屋出身の歌手の八神純子さんもお祝いに駆けつけて、素敵な歌を何曲も披露してくださいました。

 ヒット曲の「みずいろの雨」は私でもよく知っている懐かしい歌。


 彼女はアメリカのロスアンジェルスと日本を往復しながら、東日本大震災の被災地でのチャリティコンサートをはじめ、全国ツアーの歌手活動を再開させたそうです。

 若いころの変わらない声量と張りのある声で楽しませてくれました。

 仕事での出張はどこかでかなり緊張しますが、気の置けない仲間たちと美味しい食事をいただきながらの楽しい時間を過ごすことができ、気分も軽く帰ってきました。

 家に着くと母のブーイングもなく、機嫌も良かったので、疲れはほとんどありません。

 磯崎さん、おめでとうございます。  
 そして、ありがとうございました。

 これからも障害のある人たちのために頑張ってください。








 今日は寒い1日でした。

 私は午後から外出。
 
 義妹が来てくれて、母の世話をしてくれたので安心して外に出ていくことができました。

 ところで、本日の東京新聞の夕刊に、「あい 精神障害と向きあって」の記事が載りました。

 先日、映画の舞台にもなった、三軒茶屋のアンシェーヌ藍に記者の方が取材に来てくれたのです。

 その時、ちょうど朝のシフトで働いていたメンバーの方にもインタビューをお願いしました。

 映画の中で、一人暮らしをしている生活の一端を取材させていただいたKさんです。

 私は席をはずしていたので彼女が何を話したのかわかりませんでしたが、記事を読んで
とっても嬉しい気持ちになりました。

撮影中はうるさく付きまとうカメラに皆さんさぞかし閉口されたことと思いますが、完成した映像を客観的に見て、それが自信につながっていることが嬉しいのです。

 精神に障害のある人たちが、それぞれの思いをカメラに向かった語ることには、かなりの葛藤がありました。

 でも、結果的に、そのことがそれぞれの自信につながり、生きる力になっていることが嬉しいのです。

 そういう意味では、この映画はメンバーの皆さんの協力があったから完成できたものですし、私も色々と勉強をさせていただきました。

メンバーの皆さん、ほんとうにありがとうございました。そしてお疲れ様でした。

12月1日もよろしくお願いしますね。

というのは、12月1日の完成披露上映会ではメンバーの皆さんが司会やミニトークを引き受けて下ることになっています。

 さあ、明日からも頑張ったチケットを売りに行かなくては・・

 そして何としても1日の完成披露上映会を成功させたいと思っています。

 皆さんも、どうかいらしてください。

 よろしくお願いいたします。

 
 写真をつけます。
 まず母の元気な姿をみてください。








  そして、今日の東京新聞夕刊
  画面がはみ出してしまってきちんと貼り付けられません。全文は下記からお読みください。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201511/CK2015112502000232.html

 


今日は今にも降りそうなお天気でしたが、三浦の母の家に行ってきました。
 
 注文していた玉葱の苗が届いていたので、それを植えに行ってきたのです。
 母には内緒。
 告げると
 彼女のほうが早くついていて、既に畑の草取りをしてくださっていました。昨日はもう一人の友人がご主人と二人で行ってくれて、玉ねぎを植える予定にしていたところの草はきれいにとってくれていました。

 その見事なこと。
 家のものが誰もいないところでの作業はさぞかし大変だったと思います。

 本当は昨日、私も行く予定にしていたのですが、いろいろとあって今日になりました。

朝7時半に家を出て、夕方には帰るつもりでした。

 でも久しぶりに畑仕事をしていると、いろいろと欲が出てきたりして、ソラマメもえんどう豆も撒いたり、サラダ玉葱の苗も良く育っていたので移植してやったりと、結局日暮れ近くまで精を出してしまいました。友だちは畑仕事に慣れているので大助かり。

私はすっかり甘えてお願いしていますが、昨日と言い、今日と言い、遠くからわざわざ行ってくださる友人に、本当に頭が下がる思いです。

 私の家族では誰も三浦の畑のことを気に掛ける人間はいないのですから。
 それは畑仕事が好きとか嫌いというのではなく、母の事や母の家のことなど、誰一人として考える余裕がないということなのかもしれません。

 ですから、私には友人の行為が余計に嬉しく感じられます。

 幸い雨にも降られずに、やるべきことを済ませ、大きくなった大根や他の野菜を両手に、気分も軽く家に帰ると、案の定、母はおかんむり。

 朝、果物と牛乳、それに簡単な朝食を用意して、お腹が空いたらつまめるようにカステラや菓子パン、せんべいなども置いておいたのですが、それらは全く手を付けないで「お腹が空いた」と。
 そして、ものすごい形相で「野菜のサンドイッチをつくりなさい!」と。

 考えたら、それだけ元気が出てきた証拠です。それで買い置きのフランスパンで急いでサンドイッチを。
 母はそれをほんの少し食べ、夕食のお粥も軽く平らげて、やっと気分を直してくれましたが、私はなんだか疲れがどっと出てきた感じです。

 テレビでは、認知症の母親の将来と生活苦から親子心中した一家のニュースが・・孤立した家庭の厳しい現実に何とも言えない気持ちになりました。


  写真をつけます。
 













昨夜、夕食の後かたずけを済ませ、メールのチェックとFBへの投稿をした後、ゆっくりと入浴を楽しみ、さて寝ようとしていたところに携帯電話が鳴りました。

 ディスプレイを見ると何と母から。

 「こんな夜中に」と、いやな胸騒ぎを感じで電話に出ると、半分鳴き声で「粗相してしまった」と。

 電話口の声はかなり興奮していて「死にたい」「こんなところにいたくない」の連発。

 時間は午前2時を回っていました。

 なんとかなだめすかせて気持ちを落ち着かせようとしましたが、興奮は高まるばかり。

 「困ったなあ」と思いながら、「いま看護師さんに電話をするからともかく切るわよ」と。
 
 それですぐにナースステーションに電話をかけて、母の気持ちを何とか静めていただくことを依頼し、今朝早めに病院に出かけました。

 あの後、病院では適切な対応をしてくださったと思いますが、私が着いたときは、点滴の針を抜いてしまって寝具をびしょ濡れにするなどの騒ぎの後でした。

 そして開口一番「殺されるところだった」と。粗相はナースコールをしたのに間に合わなかったことが原因だそうですが、それが母にとってはショックだったようで、それがもとでの錯乱状態が続いていたようです。

話す内容も知らない人が大勢取り囲んで着ている脱がそうとした」「いやだというと大きな声で怒鳴りつけられた」「怖いので逃げようとしたが、窓もない部屋で逃げられなかった」「新聞を見ると、病院で老婆が殺されたと大きく出ていた」等々支離滅裂なことを必死に訴えていました。

 私の家でも夕方になると少し不穏な状態になることはありましたが、それまでは言うことはかなり整然としていて、何となく納得させられた思いがしましたが、今朝の母はこれまでに見たこともないような、完全な錯乱状態。

 そんなときは反論をしないで、ともかく話をじっと聞いていることだと思い、時々相槌を打ちながら聞いていると、母の気持ちも落ち着いてた来たのでしょう。
1時間ほどしたら元の母に戻りましたが、この錯乱状態は、母がまだしっかりと自尊心を保っていることの証ではないかと、私には思えました。

 そして今日は入院してから初めて車いすでトイレに行って、看護師が手伝うというのを拒否して、ウォッシュレットのお湯を流しながら、自分で慣れた摘便もして、お腹もすっきりさせることができました。

 トイレは広いので私も一緒に入ってその様子をつぶさに見ていて、95歳の母のすごさをみた思いです。

 これまで一人暮らしをしてきて、家事などは手伝っていましたが、肝心な「いのち」の維持に関しては私も案外無関心、というか知らないことがあったなあと、改めて母のすごさを実感させられました。

 年寄りを侮ってはいけない。

 周りからみると汚いとか、不潔とか言われそうですが、こんなにも神々しい姿に接して、心底そんな思いに駆られています。


 
 雨の降る寒い1日でした。

 でも私は、ほとんど病院内の温度管理がされているところにいたので、それほど寒さは感じませんでしたが。

 ところで、昨日緊急入院した母の病名は「低カリウム血症」とか。

 初めて聞きましたが細胞中(血液中?)のカリウムが減少して、脱力感や食欲不振が起きるそうです。

 これまで、どんなに心を込めて用意しても「食べたくない」と拒否していた理由が、カリウムによる影響なのだということがよくわかりました。

 何しろ、「食べろ、食べろ」と、一生懸命に進めるのでしたが、今にも泣きだしそうな表情で恨みがましく私を見つめるだけで、どうにも食欲がわないようでした。

 私も酷な要求をしていたのです。

 それから、このところは終日ベッドから起き上がれないで、トイレに行くときはやっと起きだしていたのですが、それも私は甘えとか怠惰とかと思って、何とか起こそうと躍起になっていたのです。

 ただ、その「低カリウム血症」がどうして起きるのか?
 高齢による衰弱によるものなのか?、腎臓に病気があるのか?、それともこれまでの栄養が行き届いていなかったのか?、はたまたこれまでの薬の副作用によるものなのか、それは不明です。
 
 ですから、これからその原因を突き止めるそうです。ちなみに胃と腸はCTでは異常なしとのこと。


 ところで、カリウムが不足すると重篤な状態になることも珍しくないそうで、本当にいい時に入院したと思っています。

 入院予定期間は2週間。
 今は、医師や看護師がひっきりなしにやってきて、大事に
 そして顔色も良くなって、表情も豊かになってきた気がしています。

 そして、今日は軽いリハビリも。
 理学療法士の方が、脚力、握力の強さに驚いていました。来週からは歩行などの訓練もするそうです。

 2週間の入院で、原因を突き止め、健康体で帰ってきてくれれば言うことはありません。
 
 でもそうなるとまた、「三浦に帰りたい」が始まるかもしれません。

 まあ、そうなっても、それが母にとっての最善の事なら、私も考えなくてはなりません。


 病室からみるウオーターフロントは雨に煙っていました。

 






 今日、母が入院しました。
 
 この数日食欲がなく、水分もとれていなかったので、このままの状態が続くと危険だと判断し、「救急車を呼んでもいい」と母に聞くと素直にうなづいてくれたので、持って行くものなどを手短にまとめて119番に連絡をしました。

 電話をするとすぐにサイレンの音が。
 3人の若い救急隊員がストレッチャーや携帯用の医療測定器を肩に担いで来てくれました。

 そして早速、母をストレッチャーに移して身体状態の測定を。
 
 救急隊の見立てでは脱水症状と酸素不足があるとのこと。この間、別の隊員は事情を聴いたり、運び込む病院についての説明を。

 なんか、「一番近くの病院」がまず候補だとか。

 そう、近所にも2か所あることはあるのですが、私は、この夏に夫が入院した昭和大学豊洲病院ならば家からも近いし、勝手もわかっているのでそこを希望。
 
 するとすぐに連絡を取ってくれて、幸い先方も受け入れてくれるというのでお願いすることにました。

 ところで、母も私も救急車に乗るのは初めてに近い体験。
(父のとき1度乗っていますが)母は、10数年来、診療所で薬は処方されていますが、大きな病院にかかるのはこれまた初めての体験。

 ましてや入院なんて若いころ盲腸の手術で入院したことはありますが、それこそ数十年ぶりの事。それほど病気とは無縁できました。

 たまたま、往診を頼む医療機関に出すために母の居住地の診療所から「紹介状」をもらってきていましたので、それが少しは役に立ったようですが、血液検査や胃や腸のCTなど、検査には6時間くらいかかりました。

 そして言われたこと「いい時に来ましね」と。
 このまま受診しないでいたら「危なかった」ということでした。

 経験のないものが救急車を呼ぶのはかなり勇気のいることでしたが、判断が間違っていなかったことにまずホッとしました。

 ところで、母が入ったのは救急患者の病棟。まるで集中治療室のように何の仕切りもない大きなスペースにずらりとベッドが並び、男性も女性も混合の病室。

 えっ?ここに入院?何とも嫌な予感に戸惑う私に看護師が、「救急で来た人はみんなここに入院です。先生から説明があったでしょう」と。
 「そんな説明は聴いていません」と私。

 そういえば入院となると、まず部屋の形態を聞くはずなのにそれがなかったので、私も変だなとは思っていました。

 いくら医療の管理が必要だと言っても、これでは精神的に余計参ってしまいます。そのうえ、ベッドの両サイドには柵が頑丈にはめられていて、トイレにも行けません。(母は尿意・便意はあるのでおむつには絶対にしないでほしい、ベッドサイドにポータブルを用意してほしいと、それだけは頼みました)
 
 ベッドの柵は、夜中などに寝ぼけて歩くことで起きる骨折防止の安全柵だそう。ですから、トイレに行きたくなったらナースコールで呼ぶようにと。

 そういう不安なことがいくつかありますが、ともかく、「悪いところを良く調べて、いい状態で家に帰れるようにしましょうね」との言葉に私は、神にすがる思いで、感謝しながら母を託すことにしました。






今日は、北沢タウンホールで開かれたジョン・海山・ネプチェーンさんのチャリティコンサート に行ってきました。

 主催をしたのは藍工房後援会。

 「あい 精神障害と向きあって」の完成披露上映会もこの北沢タウンホールで行いますので、その下見もかねての参加でした。

 ジョン・海山さんは尺八奏者として活躍するアメリカの人。

 もう40年以上も日本に住んで音楽活動を行っています。

 ですから日本語はペラペラ。

 競演は弦楽四重奏団のエテルナ・カルテット、とヴィブラフォンの、浜田均さん、パーカッションのクリストファー・ハーディさん。

 和楽器と洋楽器、それにヴァィブラフォンに打楽器という珍しい楽器の取り合わせで、どんな演奏になるのかと興味津々でしたが、実に見事なハーモニーを醸し出していて、しばらく音の世界に夢見心地の気持ちに浸りました。

 
 ところで母は、昨日は、とっても元気だった母が、今日は一転、午前中はずっと寝っぱなしでしたので疲れたのだと思っていましたが、私が出かけなければならない時間が迫ると、むくっと起き上がり深刻な表情で「三浦に帰りたい」と。

「みんながどれだけ良くしてくれても今の生活は本物ではない」「あなただって管理される暮らしがどれだけつらいかわかるでしょう」「生まれたときも一人なのだから私は三浦で最期のときまで一人でいいの」…。
 
 言うことは全てごもっとも。
 
 私は「三浦に帰るのはいいけれど今の体調では心配だから、少し食べるものを食べて、力がついたら必ず送っていくから」と答えるのが精いっぱい。

 昨日の帰郷が母にとっては、懐かしさ以上に心を揺さぶる何かを与えたのでしょう。
と同時に、体が思うように動かないで、何かしたくてもできない失望感も強いみたいで、その狭間で揺れ動いている気持ちはよくわかります。

 と言って、ヘルパーなどの支援を借りるとしても、本当に一人の暮らしが可能なのか?娘としては何とも判断に苦しむところです。

 まあ、しばらくしたら落ち着いてくる気もしますが、ともかく私の家に来た時は言葉も発せないほど衰弱しきっていたのですから、一人の暮らしになるとまたそうなるのは目に見えています。

 時間が無くなってきたので、あとは事務を執っている姪に任せて私は出かけてしまいましたが、何とも難しい問題です。

 コンサートの合間も母のことが気になって、終わるとすぐに飛んで帰りましたが、私が帰ってからは、「帰りたい」の言葉は出なくて、ちょっと安心。

 まるで小さい子供を育てているような不思議な感覚にとらわれています。



 昨日から今日にかけて三浦に行ってきました。
 もちろん母も一緒です。

 母があまりに帰りたいというので、先月末に行く予定になっていましたが、いつ帰ってもいいように準備を整えたとたん気持ちが落ち着いてきて、結局帰るのは取りやめにしていました。

 今回は、東京に来る前から予約してあった「胃カメラ」で胃の検診を受けるのが目的。診療所の看護婦長からは「無理して帰ってこなくても、東京で受けたらどうか」との電話をいただいたのですが、母は「約束だから」と言いますし、私も一度は母の家に帰るのもいいかなと思い、姪の運転で行くことにしました。
 
 昨日の朝、私が徹夜仕事でやっと寝たと思ったら、いつもは起こしてもなかなか起きない母から反対に起こされてしまいました。しかもちゃんと身支度を整えて…。なんか小学生が遠足に行くような感じで。
 私は、行ったら「東京に帰らない」というのではないかと不安もありましたが、出かけに「外出着を持ってこなければいけないから」などと言っていたので、少しは安心。
 家に着くと、母は「やっぱりここはせいせいする」などと言いながらベッドにゴロン。何とも言えない安らいだ表情をしていました。
 そして、今朝は、私の方の手違いで断ったはずの介護タクシーが玄関まで迎えに来てくれて、母は車いすにのったまま診療所へ。

 介護タクシーの利用は初めてのこと。
 
 診療所では、婦長をはじめ看護師の方が温かく迎えてくれました。それに母もご満悦。これがなじみの関係なんだなあと、母の三浦での生活の一端をみた思いがしました。

 ところで、私は昔、胃カメラを飲んでさんざんわめいたことがあるので、それもかなり心配でしたが、母は実にいい子で、声を出すこともなく医師の指示に従って、無事に終了。

 帰りに、これも以前良く食べに行った日本そば屋で昼食をとって母の家に。
 母はほんの少ししか食べませんでしたが、蕎麦湯は美味しそうに飲んでいました。

 私は、畑の方も心配でしたが、今回は畑仕事はパス。
 畑は人の手が入らないので、雑草がかなり生えていましたが、それをとる時間のゆとりはありませんでした。

 そして帰る時間。
 良く寝ていた母を起こすと、案の定「帰らない」と。

 「でも一人では無理でしょう」「大丈夫」。そんなやり取りをしながら私が布団を剥ぐと、母は素直にベッドから足を下ろしたので、やはり帰る気持ちなんだと。思ったより素直に帰る支度にとりかかることができました。

 帰りの車中、20日前に東京に行ったときはリクライニングの椅子にほとんど寝たまま、目を開けることもありませんでしたが、今日は最後まで眠らずに、周りの景色を「美しい」と眺め、高速道路代のことを心配したり、「温泉に行きたい」といったり、こんな元気な母の姿をみたのは久しぶり。

 診療所や薬局で温かく迎えられ、懐かしい我が家に帰って、気持ちが満たされたからなのでしょうか?

 今は「牢屋」のようなマンションの一室ですやすやと寝ている母の顔をみながら、ちょっと疲れたけれど行って良かったかなと、私も嬉しい思いがしています。



母が私のところに来て2週間が過ぎました。
  今のところ落ち着いています。

  ただ一昨日ごろまでは夕方になると「自分の家に帰りたい症候群」がばじまって、なだめるのに大変でした。

 つい先ごろまでは一人で元気に暮らしていた母が、まるで人が変わったようにただをこねたり、微かな笑みを浮かべたり、これまでの母とは変わってしまったような気がしています。

 こんなにも早く、体調は変化するものなのでしょうか?

 以前は、電動の車椅子に乗って、駅まで私を迎えに来てくれて、スーパーのキャスターを押しながら二人で買い物をしたのはつい2か月ほど前。

 そのころは腰の痛みを訴えて、整形を受信したりしましたが骨には異常は見つからず、結局原因はわからずじまい。

 つい1か月前には自分で診療所まで行って薬をもらって来たり、胃カメラの予約を入れたり、曲がりなりにも自立した生活ができていたのですが、今の母からはその姿を想像することはできません。

 たぶん、これは私の推察ですが、栄養が回っていないのではないかと思います。

 私のところに来てからも、食欲は相変わらずあまりでなくて、朝は少しの果物とコップ半分くらいの牛乳だけ。

 昼はこれもほんの少しのおそばを申し訳程度に食べるだけ。

 そして夜は柔らかいおかゆを大匙スプーン1杯くらい・・お茶碗にはもっと盛るのですが、自分で別の皿に分けたりするので食べる量はほんの少し。

 そして寝る前にはちみつ入りのヨーグルトを1個。このときはキューウイフルーツを細かく切って混ぜて食べます。

 これでは栄養が摂れるはずがありません。

 なんとかもっと食べてもらうように、母の好物を取りそろえるのですが、以前は良く食べた甘いもの煮も今はあまり関心が向かないようです。

 多分、体が食べるものを受け付けないのでしょう。
 それとも、拒食傾向が出ているのか・・
 自分の命の時間を自分で調整しているのではないかしらと、そう思えるときもあります。

 そして昼間はほとんど寝っぱなし。

 夜は私が寝てしまうのでわかりませんが、やはり良く寝ているのではないかと思います。

 栄養が回らないと意識も幾分低下していっているようです。

 でも、まだ認知はしっかりしています。

 ともかく、以前とは比べようもないほどに弱ってしまった母を見るのはつらいこと。

 もう一度何とか元のように元気になって欲しいと思うのですが、拒食の意味は、もっと深いものがあるのかもしれません。

 母は最期まで母(自分)らしく生きようとしているのかと・・・



母が我が家に来て1週間が過ぎました。

今日は念願のテレビも入って、寂しい時間が少しは緩和されている感じです。

この1週間、私は自分の選択が正しかったのかどうか、悩む日々でもありました。

というのは、母の見守りのために予想を超えた時間がとられ、スケジュールを大幅に変更しなくてはならない事態が生まれ、これから2週間先の5つの約束をキャンセル。
長時間母のそばを離れられない厳しい現実に直面しています。

長時間でなくてもほんの数時間、打ち合わせや会議などで母のそばを離れただけで「三浦に帰りたい」の連発。それが気になって、これまでのように外で十分仕事をこなすということが、今の状態では難しくなっています。

特に夕方、認知症の人によく見られる「夕暮れ症候群」ではありませんが、毎日、必ず悲しげな声で「何も悪くしていないのに監獄のような部屋に閉じ込めて」「こんな年になってマンション暮らしをするつもりではなかった」「自由も何もない殺風景な生活は嫌だ」「ああ死んでしまいたい」・・

昼間は暖かい日差しを浴びて、ゆったりとした気分で鶴を折ったりしているのですが、夕方になると人が変わったように私を責めます。

もちろん私は適当に母の言葉をかわして、楽しい会話になるように働きかけるのですが、内心は、これで良かったのかと、つい考えてしまいます。年寄りに環境の変化は良くないと言われていますが、もしかしたら、まだ自立の力が残っていて、寂しくても独り暮らしのほうが母のために幸せなのではないかしら?と。

1週間の間に少しは食もすすみ、栄養も幾分かは回って来たので、そして、会話の時間もかなり増えているので、母も強気になっているのだと思いますが、できたら東京と三浦の間を自由に行ったり来たりできる体制が母のためには良いような気がしてきました。

夫は、母が来た時の衰弱しきった姿をみていますので、私の考えには大反対。
「絶対一人暮らしは無理」だと、頭から決めつけています。それも人としてのやさしい気持ちの表れだと理解すればいいのですが、もう少し柔軟な考えができないものかと、そのことでまた口争いになったり、なかなか思うようにはいきません。

というと、なんか愚痴ばかり思われるかもしれませんが、反面、少し引いた気持ちで、高齢者の心の揺らぎを観察できる体験は、私にはとっても貴重なこと。
歳をとって、体が弱っていって、それでも最期のときまでその人らしく生き切ることって、どういうことなのだろうかを母は自らの老いをかけて教えてくれているようです。