101.ダビデの妻 | 御言 missing link

御言 missing link

ブログの説明を入力します。

 サウルとダビデの間には、サウルの長女メラブをダビデの妻とするという約束がありました。ところが、直前になって、メラブは異邦人メホラびとに与えられ、代わりにダビデはメラブの妹ミカルを妻として迎えることとなりました。最初に妻となるはずだった長女メラブの夫が、イスラエルびとではなく異邦人だったというのは、エバが天使長に奪れたという『堕落論』の内容を思い起こさせるものがあります。また、レア・ラケルのときと姉・妹の立場が逆ではありますが、ハランの地におけるヤコブの話と似たところがあります。ダビデはヤコブの位置であり、サウルとその妻アヒノアム、サウルの息子、二人の娘は、それぞれヤコブのときのラバンとその妻、長子、レア・ラケルの位置に対応していると見ることができそうです。
 ダビデとミカルとの間には子供はいませんでした。そのためか、ダビデは「正妻ミカルよりもはしため達が誉れを受ける」と言っています。二人の関係はあまり良くなかったのかもしれません。ダビデには6人の側室がいましたが、それとは別に、もう一人、バテシバという女性がいました。イスラエル王国三代目の王ソロモンの母となる女性でした。
 このバテシバは、ダビデの部下ヘテ人ウリヤの妻でした。ダビデはその女性に一目惚れし、関係を持ち子供ができてしまったのですが、その子供がソロモンでした。バテシバがダビデに妊娠を告げると、ダビデはこのことを隠すためにウリヤを戦地から呼び戻し、家に帰らせ、バテシバのお腹の子をウリヤの子として育てさせようとしました。しかし、ウリヤは最前線で戦う兵士達のことを思い、自分だけ家に帰ることはできないと言い、家の前で家来たちと飲み食いし、そこで寝てしまい、家の中に入りませんでした。ダビデは、その後ウリヤを激戦地に送り、策略をもってウリヤを戦死させてしまったのでした。このウリヤ亡き後、ダビデはバテシバを側室として迎えました。
 ダビデの行動が不義、卑怯であるのに対して、ウリヤの行動は義と言えるでしょうから、上の話は、両者に対する神様の評価はどうなのだろうという疑問を感じさせます。
 ソロモンとイエス様を同じ立場で見ることはできませんが、文先生は、マリヤとヨセフに対して、

「マリヤはイエス様を生んだ後、ヨセフと生活してはならなかったのであります。」 (祝福18号 P135 子女の日のみことば 1976年11月26日 ベルベディア)

 と言っておられます。神様の摂理は、後の表示としての軌跡を残しながら進めらてきたことが多いことを考えると、このときのウリヤの行動は摂理的に見て正しかったということになるでしょうし、人知れず神様の評価は高いのかもしれません。また、ダビデとバテシバの関係も、ソロモンを誕生させるために必要だったと言えそうです。
 次の御言は、以前ルツに関するものとして提示しましたが、そこにはバテシバの名もあげられていました。

「マタイによる福音書第一章に四大遊女が出てきます。そこにバテシバが出てくるでしょう。タマルが出てくるでしょう。その次に遊女ラハブが出てくるでしょう。次にはルツが出てくるでしょう。四大淫女が出てきます。彼女たちはみな淫女です。夫がいるのに他の男と関係をもったのですから淫女ではありませんか。聖書を一度読んでごらんなさい。よく読んでみなさいというのです。それゆえイエス様は正妻を通して生まれることができないのです。めかけを通して出てきたのです。(罪と蕩減復帰)

 文先生は、このバテシバと、タマル、ルツ、ラハブのことを「四大淫女」と言っておられるのですが、これはあくまでも世俗的に見ればということであって、これらの女性たちがいればこそ、イエス様の誕生が可能となったとみるべきです。文先生がタマルの信仰を血統転換の上で重要視されていたことは、よく知られていることだと思います。
 最後のところに、
「イエス様は正妻を通して生まれることができないのです。」
 とありますが、ここで言っておられる「イエス様」が、文字通り、2000年前に登場されたイエス様のことであって、話の内容はそれ以上でも以下でもないということであれば、話は単純でいいのですが、これが原則について語ろうとしたものであれば、文先生に関しても全く無関係というわけではないとなるのではないでしょうか。
 もっとも、最近では家庭連合の内外を問わず、文先生は実はメシアではなかったという考えが、少しずつ広がっているようですから、そういう考えの人には、上のような話はどうでもよいものになっているでしょう。ですが、まだまだ、検証すべき御言的課題が多い中、文先生がメシアの資質や資格をもって誕生されたということまで否定するのは早急ではないでしょうか。このことと、メシアとしての使命を完遂されたかどうかは、分けて考えるべきことだと思います。当然それは迎える側の基盤となる選民の責任分担に関しての言及を避けることはできません。
 文先生がメシアとしての使命を完遂されたのであれば、救済された人間がいるはずです。創造原理的に完成したといえる人間です。自分がそれに値する人間かどうかは自分自身がよくわかるはずです。何代か後にいずれ完成すると信じている人が多いのでしょうが、本当にその確信がある人はいるのでしょうか。
 もし、文先生がメシアとしての使命を完遂できていないのであれば、完成人間はいないはずであり、堕落人間の系統には完成予定者もいないということになるでしょう。こちらの方が状況証拠的には説得力があるといえるでしょう。そして、文先生はもう地上におられないわけですから、その使命を受け継ぐ人間が地上に現れてもおかしくないのではないでしょうか。そのような考え方が存在すること自体は否定しなくてもいいのではないかと思います。
 自分たちが氏族メシアになればいいだけだ、という考えが主流ですが、実際に氏族メシアを勝利するだけで、完成への道が開ければ、それはそれでいいことだとは思うのですが。

補足;関連する内容を旧約聖書から引用しておきます。

「ダビデは再びイスラエルのえり抜きの者三万人をことごとく集めた。 そしてダビデは立って、自分と共にいるすべての民と共にバアレ・ユダへ行って、神の箱をそこからか き上ろうとした。この箱はケルビムの上に座しておられる万軍の主の名をもって呼ば れている。彼らは神の箱を新しい車に載せて、山の上にあるアビナダブの家から運 び出した。アビナダブの子たち、ウザとアヒオとが神の箱を載せた新しい車を指揮し、ウザは神の箱のかたわらに沿い、アヒオは箱の前に進んだ。ダビデとイスラエルの全家は琴と立琴と手鼓と鈴とシンバルとをもって歌をうたい、力をきわめて、主の前に踊った。
 彼らがナコンの打ち場にきた時、ウザは神の箱に手を伸べて、それを押えた。牛がつまずいたからである。すると主はウザに向かって怒りを発し、彼が手を箱 に伸べたので、彼をその場で撃たれた。彼は神の箱のかたわらで死んだ。 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。 その日ダビデは主を恐れて言った、『どうして主の箱がわたしの所に来ることができようか』。ダビデは主の箱をダビデの町に入れることを好まず、これを移してガテびとオベデエドムの家に運ばせた。 神の箱はガテびとオベデエドムの家に三か月とどまった。主はオベデエドムとその全家を祝福された。しかしダビデ王は、『主が神の箱のゆえに、オベデエドムの家とそのすべての所有を祝福されている』と聞き、ダビデは行って、喜びをもって、神の箱をオベデエドムの家からダビデの町にかき上った。主の箱をかく者が六歩進んだ時、ダビデは牛と肥えた物を犠牲としてささげた。 そしてダビデは力をきわめて、主の箱の前で踊った。その時ダビデは亜麻布のエポデをつけていた。 こうしてダビデとイスラエルの全家とは、喜びの叫びと角笛の音をもって、神の箱をかき上った。 主の箱がダビデの町にはいった時、サウルの娘ミカルは窓からながめ、ダビデ王が主の前に舞い踊るのを見て、心のうちにダビデをさげすんだ。人々は主の箱をかき入れて、ダビデがそのために張った天幕の中のその場所に置いた。そしてダビデは燔祭と酬恩祭を主の前にささげた。ダビデは燔祭と酬恩祭をささげ終った時、万軍の主の名によって民を祝福した。そしてすべての民、イスラエルの全民衆に、男にも女にも、おのおのパンの菓子一個、肉一きれ、ほしぶどう一かたまりを分け与えた。こうして民はみなおのおのその家に帰った。
 ダビデが家族を祝福しようとして帰ってきた時、サウルの娘ミカルはダビデを出迎えて言った、『きょうイスラ エルの王はなんと威厳のあったことでしょう。いたずら者が、恥も知らず、その身を現すように、きょう家来たちのはしためらの前に自分の身を現されました』。 ダビデはミカルに言った、『あなたの父よりも、またその全家よりも、むしろわたしを選んで、主の民イスラエルの君とせられた主の前に踊ったのだ。わたしはまた主の前に踊るであろう。わたしはこれよりももっと軽んじられるようにしよう。そしてあなたの目には卑しめられるであろう。しかしわたしは、あなたがさきに言った、はしためたちに誉を得るであ ろう』。」
(サムエル記下第6章)


「春になって、王たちが戦いに出るに及んで、ダビデはヨアブおよび自分と共にいる家来たち、並びにイスラエルの全軍をつかわした。彼らはアンモンの人々を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。
 さて、ある日の夕暮、ダビデは床から起き出て、王の家の屋上を歩いていたが、屋上から、ひとりの女がからだを洗っているのを見た。その女は非常に美しかった。ダビデは人をつかわしてその女のことを探らせたが、ある人は言った、『これはエリアムの娘で、ヘテびとウリヤの妻バテシバではありませんか』。そこでダビデは使者をつかわして、その女を連れてきた。女は彼の所にきて、彼はその女と寝た。(女は身の汚れを清めていたのである。)こうして女はその家に帰った。 女は妊娠したので、人をつかわしてダビデに告げて言った、『わたしは子をはらみました』。
 そこでダビデはヨアブに、『ヘテびとウリヤをわたしの所につかわせ』と言ってやったので、ヨアブはウリヤをダビデの所につかわした。 ウリヤがダビデの所にきたので、ダビデは、ヨアブはどうしているか、民はどうしているか、戦いはうまくいっているかとたずねた。そしてダビデはウリヤに言った、『あなたの家に行って、足を洗いなさい』。ウリヤは王の家を出ていったが、王の贈り物が彼の後に従った。しかしウリヤは王の家の入口で主君の家来たちと共に寝て、自分の家に帰らなかった。人々がダビデに、『ウリヤは自分の家に帰りませんでした』と告げたので、ダビデはウリヤに言った、『旅から帰ってきたのではないか。どうして家に帰らなかったのか』。ウリヤはダビデに言った、『神の箱も、イスラエルも、ユダも、小屋の中に住み、わたしの主人ヨアブと、わが主君の家来たちが野のおもてに陣を取っているのに、わたしはどうして家に帰って食い飲みし、妻と寝ることができましょう。あなたは生きておられます。あなたの魂は生きています。わたしはこの事をいたしません』。 ダビデはウリヤに言った、『きょうも、ここにとどまりなさい。わたしはあす、あなたを去らせましょう』。そこでウリヤはその日と次の日エルサレムにとどまった。ダビデは彼を招いて自分の前で食い飲みさせ、彼を酔わせた。夕暮になって彼は出ていって、その床に、主君の家来たちと共に寝た。そして自分の家には下って行かなかった。
 朝になってダビデはヨアブにあてた手紙を書き、ウリヤの手に託してそれを送った。彼はその手紙に、『あなたがたはウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼の後から退いて、彼を討死させよ』と書いた。ヨアブは町を囲んでいたので、勇士たちがいると知っていた場所にウリヤを置いた。町の人々が出てきてヨアブと戦ったので、民のうち、ダビデの家来たちにも、倒れるものがあり、ヘテびとウリヤも死んだ。 ヨアブは人をつかわして戦いのことをつぶさにダビデに告げた。 ヨアブはその使者に命じて言った、『あなたが戦いのことをつぶさに王に語り終ったとき、もし王が怒りを起して、“あなたがたはなぜ戦おうとしてそんなに町に近づいたのか。彼らが城壁の上から射るのを知らなかったのか。エルベセテの子アビメレクを撃ったのはだれか。 ひとりの女が城壁の上から石うすの上石を投げて彼をテベツで殺したのではなかったか。あなたがたはなぜそんなに城壁に近づいたのか”と言われたならば、その時あなたは、“あなたのしもべ、ヘテびとウリヤもまた死にました”と言いなさい』。
 こうして使者は行き、ダビデのもとにきて、ヨアブが言いつかわしたことをことごとく告げた。使者はダビデに言った、『敵はわれわれよりも有利な位置を占め、出てきてわれわれを野で攻めましたが、われわれは町の入口まで彼らを追い返しました。その時、射手どもは城壁からあなたの家来たちを射ましたので、王の家来のある者は死に、また、 あなたの家来ヘテびとウリヤも死にました』。 ダビデは使者に言った、『あなたはヨアブにこう言いなさい、“この事で心配することはない。つるぎはこれをも彼をも同じく滅ぼすからである。強く町を攻めて戦い、それを攻め落しなさい”と。そしてヨアブを励ましなさい』。
 ウリヤの妻は夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために悲しんだ。その喪が過ぎた時、ダビデは人をつかわして彼女を自分の家に召し入れた。彼女は彼の妻となって男の子を産んだ。しかしダビデがしたこの事は主を怒らせた。」 (サムエル記下第11章)

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ
にほんブログ村