86.「エジプトで長子を打たなければ、一世が荒野で死ぬことはなかった」 | 御言 missing link

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 ミデヤン荒野に逃れたモーセは、40年後ホレブ山で神様の命令を受け、エジプトに入り、イスラエルの民を引き連れて出エジプトを果たしました。その際、出発のための摂理としてモーセが神様から授かったのが三大奇跡と十災禍でした。この十災過の中に「エジプトの長子と家畜の初子を打つ」という内容がありました。次はそのことに関する原理講論の記述です。

「次に神は、エジプトの長子と家畜の初子をことごとく撃ってしまわれたのであるが、イスラエルの民族は、羊の血をもってこれを免れることができた。これは、サタン側の長子はカインの立場であるためにこれを打ち、アベルの立場である次子をして、長子の立場を復帰するようにさせるためであった。この災禍もまた、将来イエスが来られたならば、最初に長子の立場を復帰することにより、摂理路程を先に出発したサタンの側は滅び、次子の立場である神の側はイエスの血の代贖によって救われるということを、前もって見せてくださったのである。モーセはまた、エジプトから多くの財物を取って出発したのであるが(出エ12/35~36)、これも、将来にあるはずのイエスの万物復帰を、前もって表示されたのであった。」 (原理講論 P365~366)

 次はこのことに関連する文先生の御言です。

もし神様がエジプトで長子を打つことをしなかったら、イスラエル民族が荒 野で死ぬことはなかったでしょう。サタンが『あなたが長子を打ったでしょう』 と言って打ってきたので、長子の立場、第一先祖たちは荒野の途上でみな死んだのです。ですからカナン復帰ができたのは二世たちだったのです。そうですか?(はい)。このような原則によって歴史は動いているのです。 レバレンド・ムーンが現れることによって、このようなすべての秘密が世界に公開され、かつ実践し蕩減して、勝利の基盤の驚くべき立場に立っている統一教会であり、そしてこの驚くべき世界の転換点の頂上を越えることのできる日が三十周年のきょう、5 月1日なのです」 (創立三十周年記念日に際して 1984年5月1日 ベルベディア)

 この御言は原理講論の説明と異なります。 原理講論は、長子を打つことを摂理として説明しているのに対して、文先生は、長子を打ったことが原因でイスラエルの一世は、カナンに入ることができなくなったと語られています。やはり、文先生はどこまでも愛を中心として語られていることがわかります。原理講論の説いている
「サタン側の長子はカインの立場であるためにこれを打ち、アベルの立場である次子をして、長子の立場を復帰する」
 というような、サタン側を打って長子権を復帰するという考え方は、文先生の思想の中には原則的に存在しません。三大奇跡も十災禍も、それがもともとの予定だったのではなく、アブラハムの象徴献祭の失敗、イスラエル民族がエジプト民族を自然屈伏させることができなかったこと、モーセがパロ宮中から逃れなければならなくなったこと等、これらの事情があったが故の摂理だったと捉えるべきでしょう。
 以前次の御言を提示しました。

「神様は二性性相の中和的存在だというでしょう。中和的立場で愛を中心とした統一的存在ということは今まで話さなかったのです。そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。 (真の神様 P21)

「宇宙の愛の根本は神様なのです。そして神様の愛がどこへ行って結託するのかということが問題なのです。論理的に神様はアダムとエバをつくりましたが、その時、二性性相に分立して、何を中心として中和的存在としたのかというと、愛を中心としたのです。これは原理の本から除いてあります。原理の本にはないのです。」 (P52 神様と私 1989年10月15日 ソウル本部教会)

 文先生は、原理講論に、
「そこに愛を中心とした統一的存在だということをつけ加えなければならないのです。」
 と言っておられます。また、
「何を中心として中和的存在としたのかというと、愛を中心としたのです。これは原理の本から除いてあります。原理の本にはないのです。」
 とも言っておられます。一番大切な一語ともいえる「愛」が抜けているということは注視すべきことです。このことは、「創造原理」だけの問題ではなく、原理講論全体について言えることです。創造原理は、原理講論全体を貫く原理を説いているはずだからです。文先生はさらに、

「皆さん、創造原理で統一教会の食口たちがいつも原理講義する時、神様は、二性性相の主体として格位においては中和的存在になっていると簡単に語るでしょう? 中和的主体になっている。それ、何ですか? それは何の話ですか? それ、間抜けです。 (祝福63 「世界統一開天国の関鍵が何なのか」  1989・10・3)

 と言われ「間抜け」という言葉を使って、原理講論の課題を表現しておられます。であれば、そのような内容に無知な原理講論絶対主義は「○○○」ということにもなるでしょう。
 原理講論は確かに基本なのでしょうが、先回と今回で確認したように、文先生の御言に通じていない人が原理講論絶対主義に偏ると、文先生の御言と乖離した表面的理解に留まる危険性があると言わざるをえません。原理講論をよく知ってはいても、文先生の御言と取り組む努力をしないリーダーが多いとしたら、その弊害は大きいかもしれません。

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