95.文先生の十字架の道は13歳のころすでに確定!?  | 御言 missing link

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 先回および先先回の記事では、主に
「韓国に起こった神霊団体は、ヨセフ家庭と同じ使命をもっていた。」
「その使命が実現さえすれば、キリスト教が信じようが信じまいがそれは問題ではなかった。」
「白南柱氏と金聖道氏が完全に一つになるべきであったのに、分かれてしまった。その結果、復帰摂理の第一代的な基盤に問題が起き、この使命は他に移された。」
 ということを御言を通して確認しました。
 そこで、次に登場するのが、許孝彬氏と李龍道牧師です。
 では、御言です。

次の摂理は、西側は許孝彬氏に移っていき、東側は李龍道牧師に移っていくのです。白南柱はアダム型ですが、この人が責任を果たせないことによって、李龍道牧師が出てきます。彼は許孝彬氏とは派が少し異なっていました。本来、彼らは一つにならなければなりません。ところで、一時は一つになりましたが、再び分かれてしまいました。そうして、李龍道牧師は何をつくったのでしょうか。イエス教会をつくったのです。
 中央神学校校長だった李浩彬牧師や朴在奉牧師は、韓国キリスト教に火を付けた人たちです。1930年代に、李龍道牧師は韓国に、正にエリヤ的な火をもってきたのです。この人が講義をすると、数多くの群衆が天の役事に浸るようになるなど、天の恩恵を水を注ぐように降り注いでくれました。
 なぜ水を注ぐように恩恵を注いでくれたのでしょうか。イスラエルとユダヤ教が一つになって、ローマに反駁すべきであったように、韓国においても、キリスト教が韓国を完全に背負っていき、反対する日本を退けて、天の権威を立てるべき戦いが残っていたためです。
 天は彼に強力な火を与えて、全キリスト教が一つになり得る道を模索しようとしたのです。そうして、全キリスト教が完全に一つにさえなっていたならば、絶対に神社参拝をしなかったはずです。全部一致団結して、日本に反対して出れば、鉄刀を突き付けることができないようになっていました。なぜですか。アダムの権限を主張できる位置に立つためです。」
 (真の御父母様の生涯路程② 李龍道牧師の復興運動)

「天は彼(李龍道)に強力な火を与えて、全キリスト教が一つになり得る道を模索しようとしたのです。」
 とありますから、李龍道のもつ影響力は大きかったようです。
 このころ文先生は、10歳前後の少年でした。

 上の御言の続きです。

「ところで、このような特定の使命を担って来た人々に、反対する者が出てきました。その反対した代表者が誰かといえば、金麟瑞(1894~1964)です。この人が、李龍道牧師に反対して現れました。挙国的な煽動をしました。天が使者を送り全国のキリスト教を統一させようとしたのに、このようなことをしたのです。もちろんその背後に、キリスト教の幹部たちが加担していたのですが。
 そうして平壌を中心として出発し、新イエス教運動をした李龍道牧師は、1933年に死にました。その時の年齢が何歳かというと、33歳でした。イエス様の年齢と同じです。彼が33歳の若い年齢にもかかわらず、韓国キリスト教界に旋風を巻き起こした事実は、神様の役事でなくては到底不可能なことです。
 霊的な運動も、二種類の形態に分けられました。すなわち、一つは内的であり、もう一つは外的でした。その時、これらの二つの教会、すなわち「腹中教」と「新イエス教会」を統一せよという、天からの教えがありました。それで西側集団が一つになるために、東側集団がいる所に行ったのですが、東側集団は彼らを受け入れてくれませんでした。これら二つの集団の統一を成すことに失敗することによって、神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要としました。それで神様は、御自身の指示を受け入れることができる、別の一人の人をもつことを願われました。その人が金百文氏でした。
(真の御父母様の生涯路程② 既成教会の反対と李龍道牧師の他界)

「李龍道牧師は、1933年に死にました。その時の年齢が何歳かというと、33歳でした。」
 とあります。結核による病死とのことです。「韓国キリスト教界に旋風を巻き起こした」とありますから、やはりその影響力はかなり大きかったようです。何か使命が果たせなかった内容があったのかもしれませんが、残念ながら、1933年に33歳で亡くなってしまいました。
 このとき、文先生は13歳です。
 聖書のルカによる福音書の中に
「まだ少年(確か12歳?)のイエス様が、エルサレムで、宮の中で、教師たちの真ん中にすわって、彼らの話を聞いたり、質問したりしておられた」(ルカによる福音書の2章41節~)
 という内容がありますが、このときのイエス様とほぼ同じ年頃だったといえるのではないでしょうか。
 このときのイエス様が、両親から忘れられ、置き去りにされたというのは、一つの象徴でしょう。第86の記事や先回の記事では、イエス様の十字架の原因が、ヨセフ家庭にあったということを確認しました。聖書は、そのことが、ここで、つまりイエス様が12歳のころに、ほぼ決定的となったと言っているのかもしれません。
 そこで、先先回から確認してきた
「神様は、み旨を立てるべき様々な神霊団体をして、ヨセフ家庭と同じ使命を果たすことができるようにさせました」
 という内容と、さらには次の御言も合わせて考えると、文先生の基盤、特に「ヨセフ家庭」の基盤は、イエス様と同様、12~13歳ごろ、すでに崩れていたと言えるようです。

「イエス様がこの地に来られた時、誰も知らない中で、摂理の基盤を継承し、ユダヤ民族の中心家庭であるヨセフ家庭からみ旨を展開し、そうしてすべての上流階級にまでみ旨を展開しようとされたのです。しかし、そのみ旨が成されなくなるや、反対の立場から出発したのです。(真の御父母様の生涯路程③ 解放後14年の蕩減路程)

 文先生が13歳のときに、ヨセフ家庭の使命をもって立っていたと思われる李龍道がなくなったことは、文先生の苦難を決定付けることになったのかもしれません。そのあと、金百文牧師に引き継がれていきますが、文先生が金百文牧師と出会ったのは、このずっと後です。上の御言の中には
「神様は一つの新しい運動、新しい分野の開拓者を必要としました」
 とありますから、金百文牧師の立場は、本来の「ヨセフ家庭と同じ使命」とはすでに意味合いが違っていた可能性があります。
 
「主の路程」でよく強調されることの一つに、
「6ヵ月後に、金氏は天から啓示を受けて、彼は先生の頭に自分の手を載せて、全世界のソロモン王の栄光が先生に臨むようになることを祝福しました。」(真の御父母様の生涯路程②  3人の女性の証と金百文牧師の祝福)
 という内容があります。
 なぜ、「再臨主の栄光」ではなく「全世界のソロモン王の栄光」なのでしょう。確かに、再臨主は王の王です。ですが、ソロモン王といえば「神殿」を建設した人です。象徴的にメシアを迎えた人と言ってもいいでしょう。「全世界のソロモン王」であれば、素直に解釈してしまえば、「世界的にメシアを迎えるためのソロモン王の立場」となってしまいます。やはり、この時点で、もうすでに、文先生の基台は崩れていたということなのでしょうか?

 最後に、話を文先生13歳のときに戻します。
 このとき、文先生は、若干13歳にして、すでに「解放の王子」の立場に立つことが難しいことを悟ったのかもしれません。そして、残された可能性にかけながらも、苦難の路程に向かう腹を固められたのでしょうか。わずか13歳で。その無念さを、神様のため心の奥底に沈めたまま‥‥‥。推測にすぎませんが。
以前にも提示した次の2つの御言をもって、今回の内容を終了させて頂きます。

「そのように、思いのままに朝食を食べ、昼食を食べ、夕食を食べ、好きなように歩き回りながら、“私ができることをやろう” と、活気に満ちた解放の王子ではないということを知っているので、今まで悲しみと苦痛の道を行き暗闇の道を光明の道に代置する道を教えようと、どれほど苦労したでしょうか? (ファミリー 04年2月 P18)

苦難の道は避けられないものではなかったのですが、神のために、無条件に、涙の道を選びました。人々から尊敬と讃美を受けつつ歓迎される道もありました。しかし先生は、神御自身がそういう立場におられないことをよく知っていたのです。では、先生は初めから何の個人的願望も、青年のもつ青空のごとき夢も希望も、もっていなかったかというと、そうではなく当然、大志を、夢を抱きながら、それらをすべて自ら捨てて、いつの日かこういうふうに、という希望の扉のすべてを、自らの手で閉じて、人生の最も悲惨なる道を選んだのです。ただ悲しい神の友になりたかったからです。 (御旨と世界 P611 「創立以前の内的教会史」)

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