55.文先生の前に、勝利した天使長がいなかったのであれば‥‥‥ | 御言 missing link

御言 missing link

ブログの説明を入力します。

 今回の御言も先回同様、「み言葉選集55」(P235~239)からの引用です。先回の内容に続けて、もう少し話を進めてみたいと思います。

「その前には、必ずカインがおり、サタンがいるのです。これらを屈服させなければなりません。その次にアベルのすることは何かというと、父母を復帰しなければなりません。堕落しなかったアダム・エバを再創造することの、中心的役割を果たさなければなりません。これがアベルの立場です。さらに、神様と人間の間の隔りをつなぐ役割をしなければなりません。そうすればアダム・エバが再創造されることによって、神様の愛を中心として神様と人間世界が完全に一つになるのです。アベルはそのような道を整えていかなければなりません。」

 この御言の中の

「その前には、必ずカインがおり、サタンがいるのです。これらを屈服させなければなりません。
「神様と人間の間の隔りをつなぐ役割をしなければなりません。」
 
 と言う内容は、先回の内容と同様、やはり文先生がなさってこられた内容だと思います。

 続きです。

「アベルは何を解放すべきかというと、第一に、カインを解放しなければなりません。次は、父母を復帰するために、完全な基盤を立てなければなりません。これがアベルの使命なのです。父母の前に、サタンの讒訴を許す立場に立っては、アベルとしての責任を果たしたとは言えないのです。
 アベルの使命を果たした人は、サタンの讒訴を受ける立場に立ってはいけないのです。アベルは父母を復帰するためにも、中心的な責任を果たさなければなりません。これがアベルの立場です。」


 ここでは、
「父母を復帰するために、完全な基盤を立てなければなりません。これがアベルの使命なのです。」 
「アベルの使命を果たした人は、サタンの讒訴を受ける立場に立ってはいけないのです。」
「アベルは父母を復帰するためにも、中心的な責任を果たさなければなりません。」

 と言っておられますが、文先生以前に、文先生のために、これらの内容を勝利したアベルがいたのでしょうか。

 さらに、続きです。

「また、アダム・エバは堕落することによって、実体を失ってしまいました。その次に、心情を失ってしまいました。この代わりに復帰の中間的な責任を持たなければなりません。
 言い換えれば、アダム・エバは堕落することによって、神側とサタン側の中間の立場に立つようになりました。それゆえ、こちらにもあちらにも動く立場に立っているのです。彼らが人間を神側へのみ立つようにすることができるでしょうか? これはアダム・エバがやることではありません。アベルがやらなければなりません。そのためにアベルは、父母の実体と心情を復帰することにおいて、残された讒訴条件をすべて蕩減しておかなければなりません。


 最後に 
「残された讒訴条件をすべて蕩減しておかなければなりません」
 とありますが、これは、文先生以外の一体誰がなしたと言えるのでしょうか。

 続きです。

血を流す歴史的な祭物路程というのは、カインにあるのでもなく、アダムにあるのでもなく、父母にあるのでもありません。誰にあるかといえば、アベルにあるというのです。アベルの立場はどんな立場かといえば、天使長の立場です。では、どんな天使長かといえば、堕落しなかった天使長なのです。この天地をすべて堕落させた中心的な天使長がサタンになったために、これを復帰するために、アベルを通して蕩減してきたことを皆さんは知らなければなりません。それゆえに、血を流したのは、カインではなくアベルなのです。アベルが打たれてきたのです。堕落した天使長対堕落しなかった天使長の戦いなのです。これが今までの歴史であるということを知らなければなりません。主が来られる前に、真の父母が来られる前に、このような戦いをしなければならないのです。アベルという存在がそのような立場であることをはっきりと知らなければなりません。
 アベルとは、第一にカインを復帰しなければならないし、第二に父母の実体と心情を復帰しなければなりません。アダム・エバが天使長と愛の因縁を結ぶことによって、神様の実体を蹂躙し、心情を蹂躙したので、アベルはこのような事実を蕩減するために、その実体が犯されなければならないし、自分のあらゆる希望が蹂躙されなければならなかったのです。このような立場から出たのが、アベルなのです。反対だということです。」


 最初の部分に、
「血を流す歴史的な祭物路程というのは、‥‥‥アベルにあるというのです。」
 とありますが、文先生こそ
「血を流す歴史的な祭物路程」
 を歩まれた方ではないでしょうか。
 また、
「アベルの立場はどんな立場かといえば、天使長の立場です。では、どんな天使長かといえば、堕落しなかった天使長なのです。」
 とあります。私達は、原理を通して
「アベルはアダムの立場、カインは天使長の立場」
と理解してきたと思います(正確には必ずしもそう書いているわけではないと言えそうですが)。
 ですが、ここでは、文先生は
「アベルは天使長の立場です」
 と言っておられます。この辺りは、アベル・カイン観と合わせて、御言により整理していく必要がありそうです。
 また、中ほどに、
「主が来られる前に、真の父母が来られる前に、このような戦いをしなければならないのです」
 とあります。
 文先生が再臨主として出発される際に、「このような戦い」であるところの
「堕落した天使長対堕落しなかった天使長の戦い」
 をなす中心的人物が失敗してしまっていたとしたらどうでしょう。代わりに、文先生ご自身がその立場に立たなければならなかったのではないでしょうか?

 続きです。

「天使長がアダム・エバを堕落させることによって、理想的な実体を犯し、理想的な愛の世界を犯したので、これを蕩減するために神様はアベルを立てたのです。それで、アベルが実体的に血を流さなければならなかったのです。歴史時代にアベルの立場に立った人たちには希望もありましたが、その希望を成就した立場で死んでいったのではなく、成就できないままに血を流し、犠牲になったのです。
 天使長が責任を完成することができず、アダムが堕落することによって、そのような結果がもたらされたために、神様は今日の世界に一つの中心存在を立てて、それを再び蕩減させようとしているのです。そのような立場が、アベルの立場なのです。」 
(「み言葉選集55」(P235~239)から)

 この御言の最後にある
「神様は今日の世界に一つの中心存在を立てて、それを再び蕩減させようとしているのです。そのような立場が、アベルの立場なのです。」
 の「中心存在」として、文先生を迎えるために、その使命を勝利した人がいたのでしょうか? 
 最初の御言から通して読むと、私には、ところどころで、文先生のご生涯のいくつかの場面が想起されてきます。
私は、「文先生は生涯天使長だった」と断言したいわけではありません。ただ、洗礼ヨハネの位置にまで下りて、基盤を整えなければならなかった時期があったことは事実ですから、その意味で「天使長」の立場に立っておられた時期があったということは確かなのではないでしょうか。
 神様の恨が目の前に残されていると知ったとき、それを解く道を決して避けたりせず、どこまでもそこを尋ねていった文先生でした。そこで「血を流す歴史的な祭物」となりながら、しかも、どんなことがあっても、「真の父母」の位置まで勝利を目指して上って行かなければならなかった文先生だったのではないでしょうか。

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 統一教会へ
にほんブログ村