54.「神様のため、堕落しなかった天使長を身代わりしてあげるのです」 | 御言 missing link

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 文先生の御言の中に出てくる「アベル・カイン」には、どうも2種類あるようです。それは、堕落人間同士の間の、いわば横的アベル・カインと、メシアと堕落人間の関係における縦的アベル・カインです。私達はそれを混同し、どちらか一方の考え方に固執している場合があるように思います。
 今回は、どちらかと言うと後者に関連した話になると思います。ここで、文先生はアベルの成すべき使命について語っておられます。それを、アベルの立場のときの私たちが成すべきことと受け止めると、かなり、苦しくなってきます。「これは、私たち普通の人間にはできないのでは」と思えるからです。もちろん、私たちの使命として語られたととることも、信仰的には大切です。ですから、二者択一的にならずにご確認頂けたらと思います。

 今回の御言は、「み言葉選集55」(P235~239)からの引用です。

「アベル自体を見てみると、アベルは何をしなければならないのでしょうか? それは、カインと一つになって、サタンを屈服させて、そのサタンが順応できる立場に立たなければなりません。それがアベルの責任であることを皆さんは知らなければなりません。」

 この御言の中に
「サタンを屈服させて、そのサタンが順応できる立場に立たなければなりません」
 とあります。アベルがなすべき使命として語られています。ですが、これができる人なんているのでしょうか。イエス様でさえ、地上においては結果的に、「サタンが順応できる立場に立つ」ことはできなかったのではないでしょうか。これは、まさに、文先生がなしてこられたことだと思います。

 続きです。

「アベルは一人でアベルになることができません。アベルという名前は、カインを復帰してこそ設定されるのです。言い換えれば、失ってしまった横的な3人の息子を探していく責任を背負った人がアベルなのです。ですから、アベルの前には必ずカインがおり、サタンがいるはずです。分かりますか。
 アベルを中心として、神様は何を願っているかというと、神様は再創造の歴史を立てるために、アベル自体が、堕落しなかった天使世界、つまり堕落しなかった天使長を身代わりしてあげることなのです。
(み言葉選集55 P235~239)

 最後の部分に
「神様は何を願っているかというと、‥‥‥アベル自体が、堕落しなかった天使長を身代わりしてあげることなのです」
 とあります。神様のこの願いを知った文先生が、
「私はメシアであり、真のアダムだから、私にはそのような天使長の役割に関して、心配する必要はない」
 と思われたでしょうか。
 上述の神様の願い、つまり
「堕落しなかった天使長を身代わりしてあげる」
 ということに対して、そんなことがわかってできた人が、歴史上、いったい、いつ、どこにいたというのでしょう。
 文先生が、キリスト教基盤の喪失により、ご自身の周囲には、
「堕落しなかった天使長を身代わりしてあげる」
 ことができる者が誰もいなくなってしまったということを知り、そして、その存在なしに
「神様は再創造の歴史を立てる」
 ことができないということを知ったとき、その役割を、文先生自ら引き受けられたということはないでしょうか。
「身代わりしてあげること」という部分に、神様に対する文先生のお気持ちが現われているように思います。

 続きです。

「では、天使とは何でしょうか? 天使長とは、神様が人類始祖アダム・エバを創造した時に協助した者です。これと同じく、アベルも父母を探すために協助しなければなりません。つまりアベルの立場は、神様がアダムを創造する時に協助した天使長の立場と同じだということです。このような使命がアベルにはあるのです。

 文先生は「真のご父母様」です。では、上の御言にある、「父母を探すために協助したアベル」とは誰だったのでしょうか? 文先生の前にいたのでしょうか? その使命を完遂したと言える人が。
 いなかったのではないでしょうか。
 だから、文先生が自らしなければなかった。そして、それが、ご自身の本意ではないということは、決して言えなかった。むしろ、神様のため、自ら進んで、その道を行かれた。
 ということだったのではないでしょうか。
 そうであれば、

アベルの立場は、神様がアダムを創造する時に協助した天使長の立場と同じだということです。このような使命がアベルにはあるのです。」

 とは、

先生の立場は、神様がアダムを創造する時に協助した天使長の立場と同じだということです。このような使命が先生にはあるのです。」

 ということになるのではないでしょうか。
 そうでありながら、文先生は、この使命だけで終わるわけにはいきませんでした。「真の父母」という責務がありましたから。また、食口にも、そこから成すべきことを悟り、それを果たしていくという責任が残されていたのだと思います。そのため明言を避けられたのだと思います。

「なんと、再臨主であり、真の父母であられるお父様のことを、天使長だと言っている。言語道断だ!」
「やはり、サタンは巧妙だ。御言を利用しながら、食口の価値観を少しずつ壊してくる」
「いくらお父様が御言を読みなさいと言っておられたからといって、危険な解釈をするぐらいなら読まないほうがいい。」
 といった批判の前に、少しだけお考えください。

 「縦横の8段階」を行かれたということは、上で述べたような内容が含まれていたということなのではないでしょうか。

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