19.「再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした」 | 御言 missing link

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 いままでの信仰の歩みを振り返ってみると、最低限でもいいから、いかに摂理に参加・同参するかということが大切で、それが天一国入籍の資格であり、それを失わないための防衛戦のような歩みや闘いをしてきた感があります。
 自分を成長させ、同時に、真の家庭を目指すにはどうしたらいいかということに対し、関心を高め、真剣に考え、学び、取り組む余裕はあまりありませんでした。決して、努力することを捨ててきたわけではないのですが、最後は文先生が何とかしてくださるだろうという期待が、どこかにあったことは否めません。

「皆さん、神様の愛、生命、血統と連結されていますか? これが問題です。神様の血統とは何か知っているのかというのです。『歴史がこれこれこうなので、神様の血統はこうでなければならず、そのことを自分が知っており、自分がもっているものは間違いなく、神様の愛と生命と一体となった永遠普遍の血統である。』ということを知っている立場に立っている人が何人いるかというのです。大きな問題でしょう? わかりますか? 
 血統についてみれば、全員、個人完成において落第です。混乱が起きています。どのようにして個人完成するのかわからずにいるのです。
 (ファミリー 01年11月 P45 本殿聖地 超宗教神学大学院大学校 建立起工式のみ言)

 私達の状態について、
「血統についてみれば、全員、個人完成において落第です」
「混乱が起きています」
「どのようにして個人完成するのかわからずにいるのです。」

 と言っておられます。


「皆さんはどのような基準にありますか。長成期完成級の基準にも上がって来れなかったので、どうしたら祝福をしてあげられるのかということが問題です。」 (祝福家庭と理想天国Ⅰ P801 祝福の意義と価値)

 私達は、
「長成期完成級の基準にも上がって来れなかった」
 とのことです。果たして、その後、この「長成期完成級」に上がったといえる人がどのくらいいるのでしょうか?

「神の祖国を宣布し、平和の王国を宣布したにもかかわらず、地獄に行く群れたちが、祝福を受けた群れたちが、霊界の楽園の門を越えることができず、敷居の前でとどまり、天国の代わりに祝福家庭の楽園が生じるというのです。 (ファミリー 04年2月 P53 )

 このままで、私達は、天国に行けるわけではないようです。
 文先生はあくまでも、再臨のメシアとして来られた方です。その目的は、人類の救済です。
 もし、文先生のご存命中に、創造本然の個人・家庭に復帰されたという実りを1人も、1家庭も見出だすことができなかったとしたら、文先生にとって、こんな無念なことはなかったのではないでしょうか。
 せめて、時間の問題で今後現われるという確証でもあればいいのですが‥‥‥。

「皆さんたちのために、ここにいる子女や一族の面倒は、見ませんでした。面倒を見ましたか、見ませんか? (「見ませんでした。」) はっきりと言ってください。面倒を見ましたか、見ませんか? (「見ませんでした。」) だれのためですか? カインの息子、娘を救ってあげるためです。
 神様がそうです。世の中を救うために、独り子とキリスト教を犠牲にしたことと同じです。先生の家庭を犠牲にすることは当然のことだと考え、皆さんのために、すべてのものを投入しました。全てのものを投入したのです。投入した結果が何ですか? すべて流れていきました。入籍できる人は、一人もいません。全員、失敗しました。
 父母が、カインの世界を救うために犠牲になったのと同じように、興進君と霊界に行っている4人の子女たちは、皆、自分の持って生まれた寿命を全うできずに、中途で急死した人たちです。皆、事故死です。
 そのような興進君の前に、あなたたちが入籍するためにすべての不足なこと、蕩減復帰の恨を抱いていく神様と真のご父母様に重荷を負わせたという恥ずかしい事実を知らなければなりません。これが分からないときには‥‥‥‥‥。
 先生に無念な思いをさせるなというのです。今から、死んでいく人は、審判台に出て行くときにサインをしなければなりません。国家の重犯罪人を死刑場に立たせるときに、大統領がサインをするのと同じように、今からは、許す法がありません。」
 (ファミリー01年2月 P17 第34回 真の神の日 午前零時み言)

 中ほどに、
「入籍できる人は、一人もいません。全員、失敗しました。」
 とありますから、創造本然の個人・家庭に復帰されたという実りを、私達に見ることはできなかったようです。そして、最後の方では、
「先生に無念な思いをさせるなというのです。」
 と言われ、今後の私達のことを心配しておられます。

 このあと、さらにしばらく御言が続いた後、文先生は、さらに、次のように語られました。

「そこにおいてどこに万物があり、どこにイエス様がいますか、イエス様も成し遂げることができませんでした。それに対して再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした。(ファミリー 01年2月 P59)

「再臨主もみ旨の定着を成すことができませんでした。」
 と言っておられます。
 少なくとも、この御言が語られた2000年末の段階では、御旨の定着は成せなかったようです。
 同様の意味ととれる御言が、2011年の訓読会で語られています。

「わたしは、神様のみ旨の中で,私が果たさなければならない責任を完全に築きあげてしまってはいなかった。」(ヨスでの訓読会 天歴8月2日 2011年8月30日)

「あなた達は神のみ旨とは何か分かっていないだろう? それがどのようになっているのかをまだ見ることもできない。これはまだなされていない。」(2011年9月14日韓国チョンシンユースセンターでの訓読会)

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