先回と先々回の内容は、「祝福で血統が転換される」VS「祝福によっても血統は転換されていない」という相反する2つの御言に関する内容でした。このことについては、いろいろな見解があるかもしれません。私自身は、よく言われてきたことですが、本来は、キリスト教徒等が祝福の恵みを受けるべきであったのが、私達、元異邦人が受けたために、本来のメシアとしての権限・権能を発動しても、それに見合う実りを私達に見ることができなかったということなのでは、と考えています。
「本来、先生が祝福しなければならないのは、完全に純粋な善男善女なのです。キリスト教などの宗教を信じる神父や修道女、僧侶、尼僧のような善男善女を結婚させるはずでした。
しかし、キリスト教が反対することによって、エデンの園で追い出されてしまった立場に立つようになったので、仕方なく祝福をしたのです。この人たちを先に祝福してあげたという事実は、真の父母の前に恥ずかしいことです。」 (ファミリー98年1月 P13)
すでに、天一国入籍祝福等が行われたのですから、真のご父母様の勝利圏と権能を信じるべきだとは思います。しかし、私たちの中身があまり変わっていないのに、ご父母様の勝利権と恩恵を信じれば、それだけで、天国へ直通するわけではないはずです。
次の御言も、念頭において、ご検討ください。
「人間は信じることによって生まれたのですか。堕落とは何ですか。堕落したのは愛によって堕落したのでしょう。偽りの愛で堕落したものを、信じることで救いを受けることができますか。サタンの愛を清算することができますか。サタンの愛を清算することができないのに、救われると思いますか。神様の血筋とサタンの血筋とに分かれてしまったのに、サタンの血筋の者達がただ信じるだけで天国に皆住むことができますか。
本然の創造理想では、神様の愛の根を中心にして、それが元となって収穫された実だけが、天国に穫り入れられるのです。それなのに、サタンの血筋のものが、信仰するだけでどうして天国に行くことができますか。そのような妄想的な、理論に符合しない信仰観に従って、世の終わりの時を待ち続けてきたというのです。何とあきれた話でしょう。それで、祈祷することは、「福を授け給え」というのです。サタン世界に根を張っていながら、「神様の愛と福は自分に下さい」と言っているのです。これは泥棒ではありませんか。そのような祈祷を聞くイエス様の心境がどれほど悲惨であり、神様の心境がどれほど切ないことでしょうか。
皆さんに、そのような祝福を受ける資格がありますか。神様の祝福を受ける人は、どのような位置に立った人ですか。神様の愛の根から生まれていなければならないのです。本然の父母から生まれて成熟したならば、その本然の父母から祝福を受けて、宇宙を相続する立場に立つのが祝福です。皆さんはそういう位置に立ちましたか。統一教会にそのような基盤がありますか。祝福を受けた人達、手を挙げてみなさい! 皆さんが置かれている今の位置は、祝福を受けた者としての位置ではありません。祝福の本然の世界を求めていくための条件基盤なのです。36家庭であろうと、何であろうと皆同じです。皆さんは、祝福を受けた者達だと思っているのですか。本来の祝福を受けた者達ですか。違うのです。違うのです。」 (御言選集55 P55 メシアと我々)
前半部分を読んでいくと、胸が痛いのですが、中ほどに、
「そのような祈祷を聞くイエス様の心境がどれほど悲惨であり、神様の心境がどれほど切ないことでしょうか。」
とありますから、
「キリスト教徒のことを言っておられたんだ」
と思い、緊張が少し緩んで、ほっとします。だからといって、客観的に読み過ごすことはできません。この
「イエス様の心境がどれほど悲惨であり、神様の心境がどれほど切ないことでしょうか」
のすぐ後に、
「皆さんに、そのような祝福を受ける資格がありますか」
とあるからです。しかも、そのあとは、完全に私達を対象にして、祝福について語られています。
ですから、前半部分も、キリスト教徒の話のように置き換えながら、実は私達のことを言っておられるのではないでしょうか。
もし、そうであれば、上の御言の中の、
「信じることで救いを受けることができますか。サタンの愛を清算することができますか。サタンの愛を清算することができないのに、救われると思いますか。神様の血筋とサタンの血筋とに分かれてしまったのに、サタンの血筋の者達がただ信じるだけで天国に皆住むことができますか。」
「サタンの血筋のものが、信仰するだけでどうして天国に行くことができますか。そのような妄想的な、理論に符合しない信仰観に従って、世の終わりの時を待ち続けてきたというのです。何とあきれた話でしょう。それで、祈祷することは、「福を授け給え」というのです。サタン世界に根を張っていながら、「神様の愛と福は自分に下さい」と言っているのです。これは泥棒ではありませんか。」
という部分は、決して私達と無関係な内容ではない、ととるべきでだと思います。
また、先回の最後の御言の
「本然の祝福家庭の位置に進むための、条件的祝福を受けた者の道がどれほど険しく、どれほど難しいものであるかを、くれぐれも忘却してはいけません。」
「条件付ではなく、本物の祝福を受けた者たちになろうという真剣な気持ちで、自分の整備を進めて行かなくてはならない時点に置かれているのです。整備の仕事とはなんですか。それがホームチャーチです。この運動をなおざりにしてきたことを、涙を流して悔い改めなければなりません。」
という部分に着目すれば、私達は、みな、大きな不足を自覚しているはずです。
そして、再度、上の御言の最後の部分に戻ると
「皆さんが置かれている今の位置は、祝福を受けた者としての位置ではありません。祝福の本然の世界を求めていくための条件基盤なのです。36家庭であろうと、何であろうと皆同じです。皆さんは、祝福を受けた者達だと思っているのですか。本来の祝福を受けた者達ですか。違うのです。違うのです。」
とあります。
つまり、私達の位置は
「祝福を受けた者としての位置」ではなく
「祝福の本然の世界を求めていくための条件基盤」
とのことです。
ただし、その原因は、必ずしも私達だけの責任ではないようです。その前の部分には、
「神様の祝福を受ける人は、どのような位置に立った人ですか。神様の愛の根から生まれていなければならないのです。本然の父母から生まれて成熟したならば、その本然の父母から祝福を受けて、宇宙を相続する立場に立つのが祝福です。皆さんはそういう位置に立ちましたか。統一教会にそのような基盤がありますか。」
とあります。「本然の祝福」がなされるためには、私達の信仰だけでなく、私達の生まれた位置、統一教会の基盤も重要だったようです。
それを、整えるようとして、文先生は、「条件的祝福」により、上の御言の中にある
「祝福の本然の世界を求めていくための条件基盤」
を形成する必要があったのではないでしょうか。
文先生御聖和の翌年の2013年2月22日に行われた「天一国基元節入籍祝福式」について、教会では、
「蕩減の時代は完全に終了した上で、天一国基元節入籍祝福が行われ、その恩恵で私達が堕落前のエデンの園である天一国に入籍した」
と説明されました。
ですが、この説明では「信じるかどうか」の域を出ていないように感じられます。単に信じるだけでなく、理解すること、少なくとも理解しようとすることが大切なのではないでしょうか。
そのことによって、私達に不足なこと、成さなければならないことが、よりはっきりと見えてくるはずだと思います。
最後に、正式に公表されたものではありませんが、2012年4月25日の訓読会(天正宮)で語られた御言から、一部を提示して終わります。
「彼らは真の父母とともに生きたのだろうか? できなかった。彼らは真の父母とともに歩むことができたのだろうか? できなかった。父母とともに歩み、生きることのできなかったものが、その結婚式に参列する資格があるだろうか? 一人もいないであろう。」
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