13.原理講論派VS説教集派 | 御言 missing link

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13.原理講論派VS説教集派

 
 私の知人に原理講論を毎日読んでいるという人がいます。たまに会うと、「読むといいよ」と勧められます。
 また、ある高校生の2世の男子が、「原理講論を21回読んだ」と言っていました。すばらしいと思います。
 ただ、こういうときに、
「それでいいんだろうか」
 という疑問の方が強くなってしまいます。
 特に2世を原理講論に縛り付けていいのだろうか‥‥‥と。
 一方、御言を訓読している人の中には、
「自分はわからなくても、霊人達が聞いていて、霊界が変わる」
 という人がいます。これも不思議な観点です。

 では、御言です。

「原理のみ言を中心として精誠を尽くす人というのは『原理講論』を毎日、読んで、読むのです。朝に読んで、昼食時に読み、夕方に読みながらも嫌にならないことが精誠です。」 (1992.8.27)

 先ほどの、私の知人と二世は、この実践者です。
 では、次です。

「み言と伝道、皆さん、統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです。み言で武装するのと同時に伝道しなければならないのです。心情の体恤というものは、自分一人では駄目です。伝道しなければなりません。伝道です。どうやって? 何で伝道をするのですか。『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。(天聖経 「天一国主人の生活から」)

 ここでは
「『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。」
 とあります。

 次の御言です。

「『統一原理』は膨大です。世の中に『統一原理』で解けないものがありません。大学街のどこに行っても、このような内容を探し出すことはできません。統一教会だけがもっているこのような特権的な内容は、世界万有の百科事典のような内容を備えています。これが当てはまらないものがないのです。なぜでしょうか。人間の根本問題を中心に、天倫の根本的なものを中心としているので、公式と同じだというのです。一つの原則がすべてのものに適用されてこそ、公式と言うことができます。このように、すべてのものに当てはまるのが「統一原理」です。この『統一原理』は、現代哲学や心理学にも当てはまり、物質世界の原則にも、すべて当てはまるのです。 (マルスム選集  26-193 1969・10・25)

 統一原理さえ勉強していれば解決できないものはないというわけですから、とにかくある期間「統一原理あるのみ」となることは大事かもしれません。
 
「レバレンド・ムーンが『原理』を知っているので、神様が協助できるのです。知らなければどうなっていたでしょうか。ですから、皆さんは、『原理』を知らなければならないのです。どれほど『原理』が重要かということを知らなければなりません。皆さんは、『原理』を勉強していますか。『原理』の本を見て涙を流せば、天が訪ねてくるのです。(マルスム選集 224-334 1991・12・29)

「『原理』を知っているので、神様が協助できる」そうですし、また、
「原理」を心情的にも理解することが大切だと言っておられるようです。
 
 ここまでくると、私達は原理講論さえしっかり勉強しておけばそれで十分だという気がしてきますが、文先生は決してそんなことを言ってはおられません。
 次の御言を、読んでみてください。(今までに既に提示させて頂いた御言もあります。)

「今あなたたちが学んでいる『原理講論』、これは歴史路程において成された結果的記録であり、これをいかにして蕩減すべきかということについては、まだまだ述べていない。それは先生自身が闘って勝利して切り開いていく。」 (み旨と世界 P11 「復帰と祝福」 1969年2月2日)

「まだまだ述べていない」ということは、原理講論には書かれていないことがある、ということですね。

「今までは、講義をしながら自分勝手にやってきたのです。それはいけません。原理のみ言を全部本を読みながら講義するのです。『原理講論』は劉協会長が書いたのではありません。1ページ1ページ鑑定を受けたのです。
 私が成したことに手を付けることはできません。ありとあらゆるものが、皆そろっているのです。間違っていたとしても、それを知らないのではありません。間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです。すべてを教えてあげるわけにはいかないのです。
 (ファミリー 95 2月 P63 「真の父母の勝利圏を相続しよう〈神の日のみ言〉」)

「すべてを教えてあげるわけにはいかない」ので
「間違っているところ何ヶ所かを、そのままにしておかなければならないのです」
 と言っておられます。原理講論には間違っているところもあるようです。特に、御旨に関することは詳しく教えることができないため、間違ったところを「これこれこのように直せ」と指示すれば、詳しく教えたことになってしまうのかもしれません。

「『原理』はイエス様まで説明しているために、イエス以降、先生に関することを皆さんは知りません。それゆえに、皆さんはこれから本当の勉強が残っているのです。まだ私が教えてあげていないのです。 (祝福68 P157 「根本復帰」)

「『原理』はイエス様まで説明している」とは、再臨主が来られるまでのキリスト教史を含めて、ということだと思います。
「先生に関することを皆さんは知りません」とは、再臨主が来られてからのことを皆さんは知りません、ということになるでしょう。
「これから本当の勉強が残っている」とのことです。

 では、私達は『原理』以外に本当の勉強をしてきたのでしょうか。

成約時代は、先生の400巻以上のみ言集と『原理』の本を中心として、家庭が一つにならなければならない時です。ほかのものは信じるなというのです。これを握って真の父母が世界をまとめサタン世界に勝ったので、皆さんもこれを知れば、サタン世界が侵犯することができず、堕落圏が再侵犯する道から絶対に抜け出せるのです。」 (247-127 1993・5・1 「真の父母と成約時代の出発」 )

「先生の400巻以上のみ言集と『原理』の本を中心として」
ということですから、やはり、原理講論だけで十分だとは言っておられません。

 御言集と原理の本を通して、「文先生が握ったもの」を知れば、私達も
「サタン世界が侵犯することができず、堕落圏が再侵犯する道から絶対に抜け出せる」 とのことです。

「先生はいつも完全には教えてあげません。原理の本に対する内容の中に分からないことがあれば、先生がどこかに行って、一言話すのを聞いてみれば分かるはずです。先生が何の話をしたのか、毎日のように人をおいて、ついて回らせながら報告を受けなければなりません。」 (ファミリー 96年8月  P12)

 文先生の御言によって、さらに原理講論の疑問も解けるようです。

「今までの先生の説教をまとめた説教集をすべて読んだ人は手を上げてみなさい。こら!どんな教育をしたのですか、協会長。先生はその説教集の中でも深い内容は語れませんでした。今でも語ることはできません。御言の貴さを知り、御言の下には生命の源泉が、湧き水の源泉、水の源泉ではありません。降水ではありません。その生命の源泉が流れているということを知らなければなりません。自分個人の家にその湧き水のパイプをひいて永遠の生命水が湧き出すような道を模索してみなければならないというのが、統一家の群れの責任であるのに、何をしてきたのですか。あれはみな古物屋に売る本なのですか。」 (真の神様の祖国光復 P216)

 ここでは
「御言の下には生命の源泉が」流れていることを知り、
「その湧き水のパイプをひいて」
「永遠の生命水が湧き出すような道を模索してみなければならない」
 と言っておられます。そして、それが
「統一家の群れの責任である」
 とあります。

「原理講論」と「説教集」、どうも「原理講論」の方が身近で、よりわかりやすく、そのため、より生命視してきたように思います。ですが「原理講論」をよく学んできた人ほど「説教集」との取組が大切なのではないでしょうか。
 
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