「今度沖縄の作家の小説をクラスで読むんだけど、もし時間があったらちょっと何か話しにきてくれない?」そんな友人の願いをつい気軽に引き受けてしまった。数週間前のことである。
ハワイ大学英文学講師である彼女が担当するのは「文学と文化:植民地支配と島国」。古くはシェイクスピアの『嵐』から、新しいところではカリブ海出身の作家ジャメイカ・キンケイドの『小さな家』など古今東西のテキストを題材にアメリカと「植民地主義」について考えてみようというのが狙いだ。
沖縄文学の数多ある候補の中から彼女が選んだのは芥川賞受賞作家、又吉栄喜氏による「ジョージが射殺した猪」。作品の文学的価値や歴史的な意義、又吉氏が成した功績についてこの場であえて説明する必要もないだろう。ハワイ大学で沖縄近現代文学アンソロジーを編集したフランク・スチュワート教授の言葉を借りれば「現代沖縄文学の中でももっとも衝撃的な問題作のひとつ」である。
泥沼化するベトナム戦争を背景に、沖縄に駐留する若いアメリカ人兵士らは自分らしさ、人間らしさを失っていく。貧弱な肉体に加え、善良ではあるものの精神的にどこか脆いところのあるジョージは軍隊という組織の中で居場所を見失い、次第に心の闇へと呑み込まれていく―そして無力な老人を猪に見立てて射殺してしまうのだ。
二十歳前後の若いアメリカ人学生たちにとってそれは予想以上に残酷な、剥き出しの現実だったようだ。映画「プラトーン」などの映像資料を含めた私の短い講義が終わった後、クラスは沈黙に包まれた。ひとりひとりが真剣に考え込んでいる。
多くの「Why?」の声がぽつりぽつりと挙げられた―なぜジョージは誰ともわかりあえなかったのか、なぜ自分を止められなかったのか、なぜ?―納得のいく、道理にかなった答えはあるはずもない、そもそもそこに道理などなかったのだから。
当初計画していた通り、授業はその後それらの「なぜ」についての活発な意見交換の場となった。沖縄の声が今ここに届いている、それがはっきりと感じられるひとときだった。