そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


他者に向う、私の方位は、視線の自己中心性を失い、無私の寛大さ、と化す、主体化すること、なしには、他者と関わることは、できない。
このような関係、こそが、言説の関係、なのであり、この関係が、言語を媒介として、確立されるや否や、諸事物は、共有物、となり、それについて、何かを語りうる、もの、と化す、可能性を、獲得する。


逆説的ながら、この時、はじめて、他者の他者性(要するに、自己性‐身体的現実性)、が、自己の他者性(要するに、自己性‐身体的現実性)、とともに、主体性の対象、として、出現する。
すなわち、公共の自己意識(主体‐自己)における、主体性においては、他者や自己の、自己性を、観念(公共の観念)、として、把握し、輪郭の定まった形象として、表現する、ことになる、のであるが、自己性においては、他者や自己の、自己性は、そうした、公共の観念を、はみ出しつつ、輪郭の定まった形象を、絶えず、破壊する、ように、あらわれる、ことになる、のである。


自己性は、公的な主体性の対象として、明確な諸性質(主体性の与える形式)、によって、現前する、のではなく、自身に即して、のみ、現出する。
つまり、自己性が、自分を表出する、のは、主体性の表象の、あらゆる覆い、と、一般性、を、突き破る、ことによって、なのである。
こうした非対称によって、主体‐自己は、主体性の形式のうちに、自己性の内容全体を開陳する、ことに、常に、失敗し続ける、のであり、そして、それゆえに、主体‐自己の、究極の夢(目標)は、最後には、形式(主体性)と内容(自己性)の、区別を、抹消しようとすること、になる、のである。


つまり、メシア的平和の終末論、とは、こうした、主体‐自己の、あり得ない合一、の夢、であり、まさに、そのような統合は、不可能なのである、から、そうした夢は、究極の救済、として、未来の彼方に、先送りされる、のである。
しかし、とはいえ、すでに、そのように、観念的に‐想像的に、先取りされている‐含意されている、のでもある、究極の到達点、は、当然のことながら、恣意的、かつ、主観的な、予見、である、にすぎず、明証性なき啓示の所産、である他はなく、すなわち、信仰に依存する、もの、であり、憶見の域にとどまる、もの、である。


このように、宗教における、超越は、融即、であるような、超越、である。
融即としての超越は、その到達点である、完全な、存在(主体‐自己の理想的融合状態)、の表象(先取りされたイメージ)、すなわち、超越的な絶対的な主体性‐唯一者、としての、神、の中に、埋没してしまう。
この、到達点である存在‐神、は、それに向って、超越しようとする、不完全なわれわれを、不可視の網に捕らえ、無力なわれわれに対して、暴力をふるう(幸福な合体‐結合を、遂げることができない、という無能力を、断罪する‐責め苛む)、ということになる。


かくて、絶対的な神の重力‐真実への救済という物語の重力、が、設定されては、その暴力(一方的な重力)、を、相対化して、その重力(実際には、恣意的な‐主観的な予見、つまり、偶像崇拝)に対して逆らうような‐その重力を避けるような、空白の死角、を、設けようとする(要するに、反権力‐反物語)、といった、対立が、演じられることになる。
しかしながら、そもそも、神の重力が、物語、である以上、このような対立は、物語を土台にした、さらなる、派生的な物語(虚構の上の虚構)、であり、すなわち、それは、要するに、物語(全体的物語)というものが、そもそも、、二項対立の構造としてある、そうした、全体的物語、内の、あらかじめ、お膳立てされている、対立、すなわち、偽りの対立、にすぎない。


このような、二項対立、の図式、こそが、物語、的な営為、なのであり、それゆえ、神の重力が、逆に、その空白の死角に、こそ、宿る‐存在する、と、解釈する‐理解する、ような、反転が、起こりうる、のであり、現に、そのような逆説が、繰り返し、演じられている、のである(つまり、無心論者こそが、真に、神を信じている‐信仰している、のである、というような、反転‐逆説)。


神の権威(猛威‐圧政)、に対して、われわれのなすべきこと、は、神の重力が及ばない、ような、空白部分、という、表現不可能の領域(物語的な‐秩序的な、言葉の、外部性)、を、どのように、既存の言葉によって、表現するか、という、問題、である、かのように、思い込まれる、のである、が、それは、偽の課題、であり、物語的な常套、なのである。
このような、思い込み、が、いつ、なぜ、生じるのか、考えてみればよい。それは、特別な才能‐感性‐ひらめき‐神の啓示、なのであろうか。もちろん、そうしたものとして、物語の磁場の中で、分節化される、のであり、ある時、その役割分担‐役柄を、引き受ける‐買って出る、のである。誰に頼まれたわけでもないのに、自ら率先して、物語の登場人物となること、これこそが、神‐物語の重力の力‐影響力、である。

このため、このような思い込みは、挫折する。


神‐物語の重力の中で、己の境遇に目覚める時、すなわち、己こそが、まさに、単なる物語的な思い込み、そのもの、である、ということに、自覚的になる時、神‐物語への、愛憎半ばする感情に引き裂かれる、ことになる。
こうして、到達への夢、が、到達点への過程‐道程、それ自体を、ひたすら、引き延ばす(永遠化する‐延命化する)、ための、物語(二項対立の果てしない反転劇)、である、ことが、理解される。
神‐物語の重力の、幻想‐虚構、を、暴く、という図式、そのものが、すでに‐常に、あらかじめ、その、当の、神‐物語の重力、によって、飼い慣らされている(分節化されている)、のであり、こうして、およそ、あらゆる、反物語的な、戦闘態勢、は、神‐物語の重力に、むしろ、貢献する‐資するもの、なのである。


治癒‐衛生(すなわち、救済)、という、マスクを被った、神の、巨大な悪意を、出し抜く‐裏返す‐ひっくり返す、ための、知‐行動、は、それ自体、治癒‐衛生の側にある、ということであり、このことに、すなわち、自らが、他ならぬ、治癒‐衛生の強制、である、という事実に、気づくなら、一歩も進めなく、なるはず、である。
それゆえ、この、誠実な反応‐軟禁状態に置かれてしまったことへの絶句(すなわち、二重拘束による硬直)、など、まるでないかのように、あっけらかんとした、すずしい顔‐風情、で、市場経済から軍資金を得て、逃走の物語を演じている者、すなわち、逃亡線を引き、逃亡戦を営んでいる、解放戦士(饒舌な、物語表現者)、は、よほど、楽天的な‐無邪気な‐素直な‐単純な、神の物語(治癒‐衛生の物語)、の、登場人物、に他ならない、か、神‐物語の重力を活気づけようとする、確信犯的な、偽悪者‐共犯者(すなわち、良心を欠いた、不誠実な、欺瞞者‐裏切り者)、に他ならない。


その証拠に、いまや、資本主義的な差異‐商品創出と、相まって、世界の至るところで、逃亡者‐反骨精神‐解体者‐暴露者、が、むしろ、市民権を得て、アカデミックなもの‐正統‐物語の中枢、に、なりつつある。
すなわち、解放‐自由、という、マスク(美辞麗句)を被った、神‐物語、なのである。
この、反物語的な(反権威主義的な)装いの、物語過程が、欺瞞‐不誠実‐無意味、なのは、どこかへ、われわれを、連れて行く、ふりをしながら、どこへも到達しないどころか、それが、どこにも到達しないために、こそ、ある、から、である。


ここには、やっていること、と、思っていること、との違い、がある。
物語とは、自動化した、思い込み、であり、われわれは、思っているほどの、行動をしているわけではない。物理的な現象‐実質、においては、何も起きていない、のにもかかわらず、何かが動いているように、観念的に、錯覚させる‐思い込ませる、もの、それが、物語なのである。
すなわち、二項対立こそが、物語の構造である、が、二項の価値の転換の見かけが、ある(結局、どちらでも、お同じ、なのである)、だけで、現実には、何も起きていない、つまり、ものの見方の上での、変化‐反転(価値転換)、が、起きている、だけ、なのであり、それを、事件のように、思い込む、とういう、だけ、なのである。