そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐哲学的転回


主体化の出現は、主要なエピステーメー的出来事として、、特定の歴史的過去に還元されることなく、永遠に再開する、反復される現在、である。
主体化は、その空虚な形式を、すべての言説に強制し、統一的連続性を形づくる契機、である、が、まさに、それゆえに、連続性と非連続性、出現し消失する、様々な内的変容‐言説編成、などの、横断‐錯綜、を、もたらす。


主体化とは、眼差しそのもの、であり、ある距離を保ちながら、対象を、一瞥で判断し、差異を見極める、理性的な眼差し‐能力‐権力、である。
しかし、眼差しの優位は、不完全である。
われわれ主体‐自己は、自身の自己性において、主体‐自己、自体における、差異のもつれ合い‐差異の錯綜‐差異の集蔵体、である、ため、主体‐自己は、錯綜させる錯綜、としての、様相を呈す。
すなわち、主体‐自己、自身が、差異に絡めとられながら、差異のもつれをほぐす、作業になる、のである。


つまり、万能の神ならぬ、不完全な主体性(主体‐自己)は、不可避的に、不純な眼差し、として、断片的な部分像、しか、描けない、どころか、混乱して、さえ、いて、差異の全体像を、描くことも、理論(過不足のない全体性)を成立させることも、できない、無能力、なのである。
それゆえ、大理論、というものが、いかなる断絶‐破綻の徴候もなく、ある、とすれば、それは、極端に、抽象的な、物語(絵空事)、として、でしか、ない。
しかるに、理論‐物語は、成立したところで、仮想の空中楼閣‐机上の空論、であり、そうした、無意味な‐無益な、虚構、として、現実に、何の変化ももたらさず、それに、死をもたらす作業(アンチテーゼ)、も、何の効力もない。


理論‐物語の思考は、自らの思考の内部における、無知の核(自己性、あるいは、具体的な身体における、主体‐自己)、を、意識するだけの、理解力を欠く、ことによって、こそ、成り立つ、抽象性、である。
まさに、この、無知、こそが、当の、理論‐物語、の知、にとって、不可欠の条件、としてある、のである。
つまり、人間を取り巻く、身体の厚み(自己性)、と、言語‐思考としての主体的存在(主体‐自己)、であること、との、交錯‐錯綜、が、知を生み出す、にもかかわらず、それ(交錯‐錯綜)については、想像しない、ことが、すなわち、それ(交錯‐錯綜)を、括弧に入れる、ことが、理論‐物語、なのである。


理論‐物語は、自らを、特権的な理性主義(形而上学)、と、勘違いし、己が、永続しうるもの、と、思い込む、ために、万能の歴史概念として、すべてに対して、無分別に、自らを、行使する、のである、が、そのような、自らに対する、思考の、イマージュ(仮想‐思い込み)への、すり替え、において、自らが、主体‐自己の、複数の、交錯‐錯綜、によって、現在に特有の(現在‐現実に限定されている)、思考法、として、構成されている、ということ(事実)、を、見過ごす、ために、非歴史的な、抽象性、として、何の効力‐影響力、も、持たない、単なる、うたかたの観念‐独善‐幻想、となる、のである。


したがって、主体化とは、結局のところ、このような、純粋な主体性の見せかけ(欺瞞‐自惚れ)、である、不純な‐不透明な、主体‐自己、からの、さらなる、主体化、でなければならない。
したがって、より誠実な(まっとうな)主体化は、誠意ある自己反省、の謂い、であり、それゆえ、その作業は、むしろ、一種のもどかしさ‐混乱、の印象を、与えるもの、となる。


主体性による、自己性の想起は、単に、忘れられた、根源‐同一なるもの、としての、自己性を、復元する想起、を意味する、だけではなく、相違するもの、の、破壊的な(トラウマ的な)出現、をも、意味する、ために、この、自らの根源、の想起、の完了(自己破壊)、は、不可避的に、延期される過程、となる。
すなわち、始源‐終末、の、所記(シニフィエ)、の、不可能性、ということ、なのである、が、この、不可能な、根源‐自己性の、秘められた夢想状態、が、一挙に把握される、ということはない、にもかかわらず、それは、夢想どころか、いわば、無意識層、として、発熱‐白熱し、深層に沈み込んだまま、われわれ自己意識に、働きかける‐影響を及ぼす、まさに、現実、なのである。
この、始源の無意識、としての、、根源‐自己性、の、覚醒への夢、が、メシア的待望論(救済の永遠の待機)、となる、のである。


すなわち、主体性は、自己性を排除する、体系、である、が、まさに、そのことによって、こそ、自己性を、差異に留意しながら、管理する、のである。
つまり、主体性は、自己性に対立しつつ、その機能として、自己性を、形式化しながら、統合してゆく、のである、が、しかし、主体性それ自身が、自らのつくり成した、自己性の、規則化した、統合物、へと、成り変ってしまう、ことにもなる、ということなのでもある(要するに、始源‐終末、の間にある、交錯‐錯綜、の過程、ということ、なのである)。