前のページ 「ゼノンの飛ぶ矢の静止のパラドクス(主体化による瞬間-時間の創造) その1」 からの続き
主体化(自己を乗り越える他者化-自己差異化)、という、無-無意味-不自然、の点、がなければ、われわれの、切れ目のない、知覚体験の持続、の中に、瞬間という概念が生じず、したがって、瞬間-点時刻の連鎖、としての時間、異なる点時刻の間、としての時間の長さ、という概念は、生じ得ない。
しかるに、過去は、この、リニアな時間概念、と、言語による過去形、という概念、によって、はじめて、存在する、ようになる、ものである。
現実には、過去というものは、存在しない。
過去は、われわれによって、すなわち、主体化によって、こそ、まさに、創造される、のであり、現実、すなわち、知覚体験の持続そのもの、には、過去は、存在しない、のである。
知覚体験には、過去はなく、ただ、想起がある-想起が伴う、だけである。
想起とは、知覚と同時的に、経験知の総体、としての思念(概念-イデア-イメージ)、の何某かを思い浮かべること、であり、すなわち、想起は、常に、そのつどの-その時々の、世界の正面知覚(一面的な知覚の前面)でしかない、知覚体験-知覚対象を、総合的立体的に肉づけする、ために、知覚に思念的な意味づけ、をする、はたらきである。
この想起は、現在知覚に連動した、現在における、思念体験-思念のはたらき、である、が、主体化は、この想起を、過去として見做し、過去形で表現し、リニア時間軸上に、現在-現時点(主体化の瞬間)との順序対比において、現在よりも、以前の方向に、位置づけ、配列する、のである、が、まさに、この操作によってこそ、そこで、はじめて、過去が、過去として、定義される、ことになる、のである。
すなわち、主体化のはたらきとは、主体-自己の二重化であり、主体-自己の二重化において、不断に更新される、無(主体化)、という現在、すなわち、永遠の現在-常に不動の現在、としてあらわれる、主体性の現在が、その対象となる、自己(知覚体験)を、俯瞰的に-超越的に-一元的に、整理して-把握して、反省する-表現する、こと、である。
この時、自己-知覚体験は、現在のものでありながら、主体性という現在、よりは、以前の、過去性、として、認識されることになる、のである。
というのも、見えているもの、とは、必ず、離れて見える、ということであり、すなわち、距離0、のところに見える、ということはなく、どのような場合にも、見える、とは、見えているものの、手前、には、空間-離隔がある、ということである。
要するに、主体化とは、まさに、この離隔-構造の出現であり、すなわち、この離隔-構造を、より確実に可能ならしめる、特権的な視点、の出現、なのである。
主体-自己、という、分裂-二重体、とは、この離隔の構造であり、主体化とは、空っぽの主体性(無)の出現、であり、その、形式的な容器、としての主体性の空虚-空隙-欠落、を穴埋めするものが、そこから、はじき出されている、自己という内容(知覚体験-知覚経験の束)、なのである。
主体化とは、内実(身体的現実性)のない、空虚な視点-純粋な視点、そのもの、の固定化、であり、その固定的な視点-不動の視点-永遠の現在の視点、こそが、すべて(世界)、を、絶対的な距離のもとに、相対的に眺める、ことを可能にする、のである。
主体化は、知覚-思念からなる自己経験、に対して、距離を置く、メタレベルであり、自己の、知覚-思念を、現在性と過去性とに、振り分ける、それ自体は、特権的な立場の、絶対的な現在性、なのである。
しかるに、自己は、実際には、現在、なのである(われわれには、現在しかない)、が、主体性に対しては、総体として、過去性、としてある、ということである。
そのような、主体性に対する、自己の過去性の中に、意味的には、やや過去へと遅れた、現在性-知覚体験(という、知覚-思念)、と、過去性-想起体験(という思念)、と、があり、それぞれ、現在形と過去形、であらわされる、のである。
このような、主体-自己の分裂のない、離隔0、とは、純粋な、現在知覚の充実、としての、動物的な現在-生、である。そこには、過去、という概念はなく、現在体験の、不断の更新がある、だけ、なのである。
同様に、実際には、われわれ(人間)においても、過去というものは、存在しない、のであるが、現在における想起-思念が、過去として、定義されている、だけ、なのである。動詞の過去形は、この想起-思念、において、使われるだけのもの、であり、そこにおいてのみ、意味をなしている。
すなわち、過去形の知覚、というものは、存在しない。「走る」は、イメージを思い浮かべられるが、「走った」は、イメージとして、想像できない-成り立たない。ある「走る」イメージ、と、それを、過去と見做す-説明する、過去という概念、との、組み合わせ、として、「走った」、という、過去形概念となる、だけである。
このように、過去とは、言葉-概念-文法、の世界に特有のもの、と言い得る、もの、つまり、過去形の中にある、もの、である。
知覚-思念は、現在のものであり、時間軸上の現時点、にある、が、実際には、それは、現時点という瞬間、ではなく、絶え間ない持続、であるため、現時点を、保証しているのは、主体化の無、であり、しかるに、主体化こそが、現時点を引き受けて(分離独立させて)、自己経験に対して、その自己という知覚世界の、切れ目のない持続を、過去-現在-未来、へと分節化している、二重構成、になる、のである。
現在の-現実の知覚了解には、常に、現在の-現実の知覚体験と、同格的-並列的な、現在の想起体験が、伴う、のであるが、この想起される経験の内容、とは、かつての-これまでの、知覚体験の、概念-イデア-イメージ、である。
主体性-現在性(現時点)に対する、離隔、としての、時間的間隔、によって、必然的に、想起体験は、現在でありながら、その想起される経験の内容(概念-イデア-イメージ)は、現在以前の比較過去性を備えている、と見做され、この構図は、主体化の無-現時点、を、中心とする物理的時間-リニア時間の上での、相対的時間順序の構成、と共に、生成し、決定づけられていく。
デジャヴ(既視感-既知体験)、は、まさに、このような、構成の中で、こそ、起こる、のである。
現在に何かを知覚体験しつつも、ほぼ同時に、すぐに、その知覚体験が、順次、想起体験される(反省される)時、すなわち、現在、進行している知覚の、現在性(知覚)、と、過去性(想起)、の、同時的な-並列的な、知覚、というようなことが、起きている場合、もともと、現在のものである、想起体験の、その想起される経験の内容、が、過去性として、強く意識されすぎる、場合、デジャヴ、という、現実の、現在と過去への、不可解な-奇妙な、二重化感覚、が、起こる、のである。
現実知覚の、瞬時の想起体験(反省)が、起こるのは、普通、なのであるが、その想起体験(の内容)が、過去として、処理される-強く思い込まれてしまう、ということで、あるから、この、主体化的な(後天的な)-時制文法的な、強すぎる、過去形化の処理、さえ、なければ、何も問題はない、すなわち、不可解な感じ-奇妙な感覚、にはならない、のである。
