知覚は、持続-運動、であり、そこに、瞬間、という概念は、ない。瞬間があるとしたら、それは、持続の短縮化、としての、短い持続、がある、だけで、持続0、というものは、ない。
持続0、という点時刻における、世界の状態は、意味をなさない、のである(決定的瞬間、と言うけれども、写真における瞬間も、持続0ではない)。
では、なぜ、われわれには、瞬間(という概念)が、あるのか。
もちろん、それは、主体化の効果、である。
主体化の無、に対応するもの、こそ、瞬間-持続0、であり、それが、点時刻の原型(マトリックス)となる。
主体化とは、持続-知覚的自然の流れ、の切断、である、ような、無、という出来事、なのである。
主体化においてこそ、世界の知覚正面の瞬間、が、あらわれる。
すなわち、知覚される対象-事物は、常に、その時々の持続における、世界の正面、であるが、持続を断ち切る、ような、瞬間、の世界の正面が、主体化とともに、出現する-立ちあらわれる、のである。
それは、主体化の無、に相関する、無意味な光景、であり、したがって、その瞬間は、どれだけの長さの持続なのか、という問題なのではなく、無-0、の無意味(ナンセンス)、なのである。
この0を、点という実在、として、読むことが、主体化を、主人のシニフィアンによって、代理表現する、ということである。無、の実体化である、点時刻は、主人のシニフィアン、という、矛盾(0を1と読む)の幻想的実体化、なのである。
このような、主体化-瞬間、が、なければ、そして、主人のシニフィアンによる、その、主体化という他者的(外部的)な出来事の、置き換え(実体化-内面化)が、なければ、リニア時間-点時刻の連鎖、という、われわれの時間概念は、生じ得ない。
ひとたび、このような、時間概念ができあがると、時間は、ある点時刻と、別のある点時刻との、間、の長さ、ということになる、ので、そこで、はじめて、瞬間にも、始まりと終わりがあり、その両端の間の長さ、である、という、認識が生じる、のである。
すなわち、点は、定義としては、拡がりのないもの(主体化)、であるが、われわれの知覚的実在性においては、点は、極小の面積を持つもの(主人のシニフィアン、という実体化。ここで、主人のシニフィアンは、矛盾している、のであるが、幻想的に、それを、押し通す、のである)、なので、概念としての、瞬間(0)、といえども、知覚現実的には、短い持続(1)、として、数えられるのである。
有名な、ゼノンの「飛ぶ矢のパラドクス」、すなわち、「飛ぶ矢は、その運動過程の、瞬間瞬間、においては、静止している」、というパラドクスは、この、二つの、内実の異なる、瞬間、の混同による、混乱(矛盾)、である(つまり、主人のシニフィアンそのものの、矛盾-混乱、である。しかるに、超越神、の実在性、をめぐる、矛盾-混乱、同じ構造-構図、である)。
すなわち、本来、持続-運動、としてある、飛んでいる矢、は、その間の、どの時点-瞬間、においても、決して、静止している、ということはない、のである、が、この、点時刻-瞬間を、主体化の無、に、対応するような、抽象的な点、つまり、一本の単線的な時間(軌跡)上の点(拡がりのない点)、として考えると、矢は、瞬間には、空間の一点で、止まっている、と、考えられてしまう、ということである。
要するに、知覚現実ではなく、抽象的な思考上、での理屈、では、矢は、止まっている、と、見做される、ということであるが、その根拠-参照点は、主体化、にある、のである。
しかるに、空中で、一瞬、止まっている、矢、とは、知覚世界では、あり得ない、無意味の出現(無としての、瞬間の世界の正面、の立ちあらわれ)、であり、つまり、それは、主体化という、自由-狂気、である、ということである。
持続のない瞬間-点時刻、の状態、というものは、自然-知覚経験、の中では、あり得ない、ものであり、したがって、それは、想像することすら、できず、すなわち、各点時刻における、矢の瞬間的な運動状態、というものは、想像不能な-理解不能な、概念上のキメラ(ナンセンスな合成物-主人のシニフィアンという幻想)、なのである。
それゆえ、ゼノンの、「飛ぶ矢のパラドクス」、は、パラドクス、というより、無意味な言説、であり、すなわち、それが、示しているのは、主体化の場所、主体化という、無意味-無-自由-狂気、であり、それは、日常的経験の中では、意味がない、のであるが、しかしながら、だとしても、人間-精神-思考、にとっては、それは、リアリティのあること-リアルなこと、である、ので、そのため、このパラドクスは、無意味(詭弁)にもかかわらず、インパクトがある、のである。
つまり、リニア時間軸上の点時刻とは、日常的経験(持続)とは、まったく別の、数学的な-幾何学的な、抽象的概念である、ということである。
時刻点Xが、直線t上の、点Aから、点Bに、動くものとする、と、異なるはずの二点、A、B、と、Xが、同じだ、ということになり、矛盾している。
すなわち、このような、幾何学上の運動は、見せ掛け、であり、運動の軌跡を、運動らしく見せている、だけ、である。
ところが、われわれの、時間感覚(認識)は、このような、作図-図式-騙し絵、とともに、形成されている、のである。
もし、このような、抽象的な概念-認識の枠組み(形式)が、なかったら、すなわち、単なる知覚(持続)だけでは、認識としての、運動も変化も、不可能、なのである。というのも、それを、保証する、基準(瞬間)、が、ない、からである。
素朴な自然科学では、自然科学は、人間の外の世界を扱うものである、とされる、ので、、時間が、われわれとは無関係に、われわれの外に、実在する、ように考える(その、根拠は、もともとは-結局は、神が、絶対時間を与えた、あるいは、神の存在が、時間-空間である-神の遍在説、というものである)が、時間は、まさに、われわれ(の主体化)によってこそ、構成されたもの、なのである。
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