そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐Do It Yourself


前のページ 「客観的現実があるという素朴な常識-思い込み(物自体-不可知論) その1」 からの続き


科学的真実、という、唯一絶対性の主張が、想像させる-予想させる、ように、唯一的な-単一的な客観的現実、という、動かし難い真実の姿がある、というのではなく、むしろ、われわれの多様な主観的印象のすべてが、そのまま、その当の、客観的現実、すなわち、対象-事物-自然、の性質(すなわち、奥行き)である、ということである。
そのように、考えると、科学は、唯物論的である、というより、観念論的であり、空想-想定(すなわち、絶対的真理-客観的真理、という、主人のシニフィアンの幻想)に、依存している、ことが、わかる(科学は、純粋な唯物論である、と、本気で自認しているような科学者は、二流の科学者であろう。それ自体、単なる、素朴な思い込み、である)。
むしろ、少ない知覚情報を、寄せ集めて、世界認識を処理するために、突飛な発想で、貧しい情報を結合させて、何とか、因果説明を構築しようとする、プリミティブな態度(すなわち、主体化を含むような)の方、こそが、メタファーのない、物質主義(極端な唯物論)である、と言い得る。


事物の存在の意味は、ほんの少し、距離や角度など、状況を変えただけでも、変化してしまうような、事物それ自体の奥行き、を持っている。すなわち、万物は、固有の属性もなければ、規範-存在規定もなく、一定のあり方-不変の理、は存在しない、と見做し得る。
そのような、事物の様々なあらわれ方、としての、その奥行きに含まれる通約不可能性、を、科学は、形と運動、をもって、通約可能なものとする、と、暴力的に、定義した(すなわち、主人のシニフィアンとした)、ということであり、形と運動、を、強引に、同一性の核として見做した、のである。


形と運動は、常に、変化する、事物の感覚的性質-われわれの主観的印象、を通じての、同一性の指標(不動性の指標)、として、選ばれた、のであり、それによって、描かれた事物の描写こそが、客観性、である、と、定義されたのである。
そのような、時間-空間的な細部描写は、当初の-最初の想定においては、より、略画的であるために、整合性を持っているように見える。しかし、細部描写が進んで、描写法が、細密になればなるほど、複雑になり、僅かな不整合でも、全体として辻褄が合わなくなって、目立ちやすくなる、のであるが、現に、科学的知識は、部分知の無構造的な堆積と化している。


形と運動の細密描写化は、いまだ、完全な整合性を目指して、原子論的な描写の微分化を、押し進めている過程にある。しかるに、科学的な客観性は、いまだに、仮定である、ということである。
すなわち、ある事物が、形を変える、のは、その各部分が、移動して、相対的位置を変える、からであるが、そうであるなら、その部分を、突き止め、最終的な部分として、確定-特定、しなければならない。そうでないと、変化の際に、その部分が、形を変える、のであれば、さらなる部分、すなわち、その部分の部分、が、相対的に位置を変える、と、描写し直さなくてはならない、からである。
常に、突き止められた部分の部分が、形を変えるなら、この過程が、繰り返されなければならない、が、この最終段階としての究極の部分を、原子(アトム-不可分割体)、として、想定した、のが、原子論、である。


もし、この、仮想の最終段階、というものが、なければ、この過程は、際限のない、無限の営み、となる。
これは、最後の審判-救済、と同じく、結論の永遠の先送り、という、主人のシニフィアンの構造である。この宙吊り状態、こそが、(常に、過渡的な)秩序、なのである。
この、はじめにある、客観性(原子)の想定、が、仮定であること、に、注意しなければならない。
すなわち、最終段階-結論-目的、の、先取り、が、まず、あり、過程は、この、先取りされた、終わり-目的、のためになされる、目的論的な過程だ、ということである。
まさに、この、究極の目的の先取り、こそが、主人のシニフィアンそのもの、なのであり、要するに、神-真理、なのである。


デカルトが、方法的懐疑において、述べているように、われわれの外部世界-客観的現実の存在を、保証しているのは、神(主人のシニフィアン)の想定、なのである。
というのも、われわれは、われわれの知覚の、正常-異常、正-誤、真-偽、を。判定-判別、しうるような手段、としての、客観的真実(動かない真理)を、あらかじめ、持ってはいない(不可知論)、からである。
となれば、われわれは、方法的懐疑によって、自らの知覚を吟味する(疑いにかける)、としても、そして、自らの、「われ思う、ゆえに、われあり」を、意識の不可疑性、という、最終根拠とする、としても、なお、この懐疑(吟味)、には、自力脱出の道がない-最終的な正しさの根拠がない、ので、外界-客観的現実は、事実、存在する、と、言える、ためには、神-真理がある-それが客観性を保証している、という、信念(観念)が、必要とされる、ということである。
もし、神の最終保証がない、ならば、外界-客観性あり、と(先回りして)言えない、ため、秩序(共同体)は、成り立たない。


デカルトが恐れるように、この神が、もし、邪神あるいは悪魔-悪霊であったら、一種のでたらめな-よこしまな計略(欺き)、として、われわれの外的事物が、気づかぬうちに、妄念や錯誤のような夢幻の世界-混乱や災いに満ちた世界、になってしまう、ため、神の誠実さに頼る必要、があり、また、現に、懐疑の主体に対して、現実性が、実現している、のである以上、神は欺かない、あるいは、神は存在する証明である、とした。


これは、科学が、科学的な技術-知識によって、現に、現実が、功利的に機能している(科学的な技術-知識の獲得が、効率の高い、経済活動を、もたらしている)、のだから、科学的真理は、正しい-存在する、ということの、証明である、と、言っている、のと、同じ構図である。
しかしながら、科学が、客観性である、(と見做されている)ことによる、その、仮初の研究結果-過程の、科学の応用としての、自由な-勝手な、使用-利用-悪用が、資源の乱費-環境破壊、や、社会-自然の人為的変化による、不確実性の増大、など、人類に災厄をもたらしている、とすれば、(デカルトが恐れるように)この神は、悪魔-邪神、かもしれない、という、疑いが、出てくる(デカルトの悪い予感は、すでに、現実を見抜いていた、のかもしれない)。
こうしたわけで、われわれは、これまでの、平穏無事の感謝を込めて、さらに、これからも、よく取り計らってくれるよう、神に祈るしかない、ということなのである。