そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐Do It Yourself


常識は、通常、知覚、と、対象-事物、とを、同一視する。
すなわち、たとえば、身近にある、何か物を、手で叩きながら、「ほら、これ、これが、ここに、こうして見えて、こうして手で触っている、これが、客観的現実がある、ということだろう」、と言う。
こうした素朴な常識においては、心と物の二重存在、や、対象とその表象、という二元論、は、すぐには、同意できない-受け容れられない、あるいは、到底、受け容れ難い、狂気の沙汰、である。


しかしながら、人間以前の(生物以前の)世界、あるいは、人間の絶滅した後の(生物が絶滅した後の)世界、では、われわれが知るような、あり方-意味、での、客観的な現実は、すべて、消滅する。
すなわち、知覚がない、ということ、であるが、それでも、事物は、なお、存在している、であろう。
が、しかし、そのような事物は、およそ、われわれに想像のつかない、事物(の世界)、なのである。


こうして、二元論は、あながち、空論-おかしな想念、である、とは、言えない。
われわれはある、同じ対象を、遠くから眺めた時、近くから見た時、とでは、当然、異なった、印象を、異なった、物の見え方-あり方、を知覚する。対象の同一性とは、常に、そのような、あらゆる、距離-角度-状況下での、事物の異なった見え方-あらわれ方、を通じて、形づくられる-結晶化される、同一性である(結局、ある暫定的な仮定、にすぎない)。


われわれにおける事物のあらわれ、において、事物は、常に、そのつど、色や形やスケール感など、感覚的印象が違う、のが、当然なのである。いつも同じである、という、推測の方が、誤り、である。
たとえば、遠くのものは、おぼろげ、であり、色や形が歪んで見える、が、それは、近くで見える時の姿の、欺き-偽、だということではなく、等しい身分の、真偽などない、同じ事物のあらわれの諸様相、なのである。
夜空に浮かぶ月、と、月面に降り立った時の月、と、その甚だ異なる、どちらが、本当の月の姿か、ではなく、どちらも、同じ月、なのである。


対象-事物が、どの距離-角度から、眺めた時に、真の姿形-標準の姿形、に見えるか(どれが、本当で、どれが欺きか)、という、基準、は、ない。遠近などの条件によって、見え方が変わる、だけであり、どれも、等しく、その対象であり、真実性の区別はない、のである。
こうして、対象は、一定の形-見え方、として、存在していない、すなわち、事物自体が、自身の奥行きを持って存在していて、通約不可能性、としてある、ということである、から、ゆえに、客観的現実がある、という認識、それ自体が、思念(観念)-思い込み、である、ことがわかる。
このように考えれば、本来、対象(知覚対象)に、真偽はない、のであり、というのも、われわれは、完全に客観的な、現実-事物(すなわち、物自体)、というものを、手にしてなどいない、のであるから、よって、それと関係(比較-対照)させられない、ならば、判定方法そのものがない、のであるから、およそ、真偽、を言うことは、できない、のである(不可知論)。


したがって、妄想や錯覚などを知覚する人がいても、それ自体において、それが、異常なのか、正常なのか、自力で判定する手段はない(懐疑を抱いても、自力脱出の道はない)、のであるから、当人にとって、それは、嘘-誤り、とは、言えないような、生の事実、なのである。
その真偽を判定するのは、それ自体が、仮初の-仮想の、常識のネットワーク、である。つまり、客観的現実とは、この、限定的な-局所的な、常識のネットワーク-日常的現実性、のことを、言っている、にすぎない。


つまり、私(という主観)にとって、客観的現実(事物)、がある、とすれば、それは、私にとって、外的な物、ということ(意味)、であるから、その定義からして、私は、そのような外的な、客観的現実を、実際に知覚することは-真に知ることは、あり得ない-できない。
私には、私の主観、すなわち、多様な妄想や錯覚や思い込みや空想、なども含まれた、内的知覚(思念-知覚)、がある、だけ、なのである。
その内的知覚、をもとにして-に基づいて、外的な物、の存在を、推論する、ということができる、というだけである。


知覚(という結果)がある、以上、その原因であるところの、外的な何か、は、あるはずである。
しかし、与えられた結果から、一定の原因を、推及することは、常に、不確実、である。
正解(事物の本当の姿)、というものが、あらかじめあって、それと、比較できる、わけではない、からである。
また、原因というものは、際限なく-複雑極まりなく、拡がる因果関係、であるから、その重層決定のすべてを、想定する-あきらかにする、ことは、不可能、である。
よって、われわれの外に、真の客観的現実がある-物自体がある、と想定はされても、その存在の認識に達することは、あるいは、その筋道を理解することは、絶対に不可能、である。


それゆえ、科学においては、このような事態-限界-不可能性を、避けるために、感覚-知覚、すなわち、感覚的性質、を、取り除いた、後に残る、空間的な形と運動-位置(つまり、理念的極限としての数学化、と、経験的測定の近似)、が、選別されて、それを、不安定な見え方-感覚的性質の変化、すなわち、事物の多様なあらわれ、を通じての、同一性の指標とする、のである。
しかし、これは、主観的印象(感覚的性質)、と、外的物質の性質(形と運動)、の、分断、ということ、ではなく、形と運動が、単に、変化(多様なあらわれ)を通じての、同一性の指標(つまり、比較的、動かない要素。すなわち、物体の色などの表面変化に比べれば、形自体はあまり変化しない。このような、動かない形を追求するために、原子論が要請される、ことになる、のである)、として、選ばれた、ということに、すぎない。
それは、あくまでも、われわれにおける、時間-空間的な描写-純物理的な因果連鎖の説明、にすぎないのである。


要するに、この、形と運動は、主観的意識、から、推定された、客観的世界、なのではなく、それこそが客観的である、と定義された、社会のコンセンサス(常識)、なのである。
つまり、知覚描写と、並列して、科学的な描写があり、両者は、同じ身分で、同じ対象に重なる、同じ対象の描写、にすぎない、のであるが、後者を、より、客観的である、として、公認する、ということ、なのである。


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