前のページ 「神に代わる人間理性(デカルト的な私‐啓蒙主義-ウロボロスの環) その4」 からの続き
科学は、用心深さに欠けるところ-確信犯的なところ、があり、自らのルーツ(起源)である、宗教(一神教)-魔術(神秘主義)に、乗っかったまま-引き継いだまま、で、なぜ、魔術や神秘を排除したのか、なぜ、神や魔術があるのか、なぜ、科学があるのか、等、について、何も、明らかにしないで、済ませている。
それが、可能なのは、科学(西洋科学)は、大前提として、そのような一神教(キリスト教)的な風土に、乗っかっているので、それゆえ、自身を問いに付す、必要がない、から、なのである。
つまり、神が存在するのは-真理が存在するのは、あたりまえ、のことである(信者にとって、それは、証明抜きの、生の事実、なのである)、という、無根拠な確信-信仰、から、別の言い方をすれば、一種の驕り-無邪気さ、から、要するに、曖昧さ、から、科学は、始めている、のである。
まさに、そのことを、無意識のうちに自覚している、ために、魔術-神秘を排した、近代科学は、科学-技術としての、必要性-実用性、としての、自らの功利的な存在価値、を強調する、のであり、そのために、そのような自己正当化(資本主義との結びつき-科学のイデオロギー化)に居直る、だけで、自らの起源を、ますます、等閑視するようになる(このために、科学-技術は、思いのほか、暴走する、と言って、過言ではない)。
すなわち、科学は、人間的(人間中心主義的-自己中心主義的-利己主義的)、あまりに、人間的、であろうとする、ために、人間が、超越性について語る、という、トートロジカルな限界を、避けて通ろうとする、のであるが、実際には、まさに、科学自身は、超越性(神-真理)の前提のもとに、可能になっている-成り立っている、のであり、超越性を信仰しながら、なぜ、人間が超越性を、知りうるのか-知るに至ったのか、なぜ、知ることが不可能だ、という超越性を、主題化し、理解し、信じる、ということが、できるのか、を、まさに、自らが、それを、実践しつつ、そのような局面を、反省しない-問題にしない、のである。
たとえば、重力、というものが、働いている、という、事実断言で、終わり、であり、科学は、では、何が重力を伝えるのか、という問いには、答えない。それでも通るのは、自然現象は、神-霊的なもの、の力の作用である、という、素朴な信仰の下支えが、すでに、ある、からで、そのように、科学は、造物主が物質に魂を宿らせた、とする、ような説-信仰に、暗黙のうちに、間接的に、依存している、のである。
あるいは、主体性-心-意識、について、問わないのも、同様であり、霊魂の肉体への宿り、といった、素朴な説-信仰(仮の答え)に、任せている-頼っている-寄りかかっている-便乗している-丸投げしている、のである。
すなわち、オカルト的な(神秘的な-霊的な-主観的な)存在を、排除した上で、すなわち、不用物を切除した上で、科学は、成り立っている、ということは、科学的な存在でないものは、存在しない、と言っている、のではなく、単に、扱わない、と言っている、だけ、なのである。
要するに、非物理的な作用、の有無を、物理的に証明することは、論理的に不可能、なのである、ということである。
自然、すなわち、動物的な日常的現実性、の、安定を破るもの-過剰、が、奇跡(という、超常現象)、である、としたら、人間の主体的活動-知的活動、そのものこそが、まさに、余計な-過剰なもの、としての奇跡、であり、それによって、超越性が、まさに、主題化されるのであって、そのような概念を持つ、こと自体が、奇跡、なのである(わざわざ言うのもなんであるが、動物にも、本能的自然にも、超越性の概念はない)。
このような、自然の破れ(過剰)、を自覚し、それを、長い時間をかけて、成長させてきた、ものこそ、人類史、である、と、言える。もちろん、いまなお、その途上にあり、科学によって、超越性の問題に、方がついた、ということでは、まったくない。
科学は、それ(過剰-超越性)を無視した、だけである、というのではなく、超越性を、密かに、内面化している、のである。
というのも、超越性があり、人間がある、という、立論は、必ず、循環に陥ってしまう、からである。つまり、人間による、超越性の主題化は、循環を回避することが、絶対に不可能である、ため、科学は、その面倒を避けた-有耶無耶のまま呑み込んだ、のである。
神秘主義(科学以前)においては、人間精神(理性)は、神によって、授けられている-保証されている。科学においては、、神という存在の明証性は、人間精神(理性)の明証性によって、保証されている。
このような立論は、いずれも、循環している。しかるに、これは、出発点、ではない-たり得ない。
はじめにある、のは、主体化、という、根拠の無、である。自らの主体化においても、他人の主体化においても、根拠は、一切、ない。
しかし、この、根拠のない出来事は、まさに、その、根拠のなさ、ゆえに、一般概念として、反転し、人間一般に、普遍化、しうる、のである。
しかし、この、一般化、の過程において、主体化、の、無、は、主人のシニフィアン、という、幻想(矛盾の封じ込め)、として、実体化-表象化、されることになる、のである。
この主人のシニフィアン(神-真理)、と、われわれという主体性(精神-理性)、との、対-二つ組、が、相互依存的に、根拠づけし合う、循環、となる、のである。
デカルトの、「われ思う、ゆえに、われあり」、は、実体-根拠、としての「私」、すなわち、一人称-単数-現在、に限局された、「私」、の明証性、の証明、である、と同時に、そのような、主体化の、実体化-表象化、である、主人のシニフィアンとしての、実体化された「私」、から無限後退する-を不断に乗り越える、主体化、を、こそ、あらわしている、すなわち、主体化としての「私」-懐疑する「私」、の表明、なのである。
啓蒙主義(科学的合理主義)は、無神経に-故意に、この前者だけを、すなわち、実体化された「私」(主人のシニフィアン)だけを、思惟的な存在様式-絶対的主観性、として、認めた-固定化した、のである(すなわち、まさに、主体化の抑圧、という、イデオロギー的な操作、そのもの、である)。
しかるに、このような実体化された「私」は、常に、否定されるべき(疑われるべき)、もの、としてある、のである。
「われ思う、ゆえに、われあり」、は、主体化と主人のシニフィアンを、同時に含んでいる、ことによって、それゆえに、われ(主体性)あり、なのである、ということである。
