そろそろマジで哲学しよう 日々のレビュー‐Do It Yourself


前のページ 「宗教的な制約を外した黒魔術的な科学(主人のシニフィアンの純化‐主体化への遡行) その3」 からの続き


近代科学が、魔術-自然の宗教的理解、を排しても、すなわち、自然を物質と運動(唯物論的な因果連鎖)、に還元しても、人間の主体性-心-意識-主観、を排することはできず、神が、例外的に、人間に与えたもの、とされる、心-霊、という、人間特有の神の属性、は、そのまま残ってしまう(古来、心、という曖昧な身分-領域、の不思議、は、神の奇跡の神秘的なあらわれ、として、理解されてきたが、現在でも、なお、そう、なのである、すなわち、そのような、過剰、なのである)。
すなわち、心身(精神-物質)二元論となる、わけである(もちろん、主体化が、まず、ある、のであるが、主体化の効果として表象される、主人のシニフィアン-神、という究極の原因の表象が、人間に、心-主体性を、与えた、というように、後から説明される、のである)。


このように、科学は、唯物一元論、ではない。
が、しかし、デカルト的な、心身二元論において、はじめて、自然科学の領域から、神秘的な(神が授けた)、心-主体性、は、排除される、ことになる。
すなわち、デカルトは、人間の心-主体性、という神秘性をも、合理化する、のである(と、一般に思われている)、が、それは、懐疑によって、得られる、「私」において、である。
つまり、すべてを疑う、という、方法を、適用して得られる、それ以上、疑い得ない、「私」は、確実な知識をもたらしてくれる、理性-根拠-道具、と見做される。


「われ思う、ゆえに、われあり」(われ思う、を、われ疑う、とすると、わかりやすい)、という定式とは、すべての懐疑に先行する、根拠であり、というのも、懐疑する自分そのものを、疑うことは不可能(ナンセンス)だから、である。
すべてのことがらを、疑う(吟味する)、ことはできるが、その、疑っている自分を、疑うこと-否定すること、は、論理的に不可能である。よって、「私」を、これ以上、疑えない、根拠、とするのである(もちろん、この、われ思う、は、主体化である。主体化という、自己の不断の乗り越え、こそ、懐疑の主体性、である。が、この「私」の固定化は、主体化を、主人のシニフィアンによって、置き換えた、その代理表現、である。すなわち、主体化、という、無、を、一人称-単数-現在の、「私」、として、実体化する、ということ、なのである)。


こうして、「私」という、理性-根拠が、自律的な思惟、として、一人歩きするようになる、のである、が、それは、そのまま、それまでの、主体的アイデンティティの条件であった、カトリック信仰や、神学的自然観、など、旧体制のすべて、を、疑うことが、可能になる、ということである。
要するに、「私」という理性原理主義、となるわけで、このもとでは、宗教的なものは、単なる迷信、として、洗い流される、ことになる。
このように、「私」を根拠として、それ以外のすべてを、疑問に付す、ということは、個人主義-反権威-反権力、であるから、このような自由主義は、革命-旧体制の破壊、へと、繋がっていく、ことになる。


啓蒙主義、とは、このような、人間理性、だけを信じるもの、である。
神が、自然の中に法則を設定した、のである、としても、自然の法則は、人間理性によってこそ、明証的に摑まれるもの、である。神のはたらきは、自然そのもの、である、と理解される、としても、理性において確かめられない-弁明できない、ことは、ドグマ-無意味-虚妄-まやかし、と、見做される、のであるから、そのように、自然が、人間の理性の範囲内にとどまるもの、であるならば、結果的に、神のはたらきは、人間理性に従属することになる。
すなわち、このような、依存関係の逆転は、そのまま、宗教は、その存在を許される、としても、それは、人間理性の許す(許容する)範囲内、すなわち、合理的な判断-解釈の範囲内、に限ってのこと、である、とされるようになる、ということである。


このような事態-流れは、要するに、主人のシニフィアンの内実、および、主人のシニフィアンのもとにある、絶対的な、位階構造-支配構造-権力構造、の、実状が、変わった、のである、ということである。
いまや、主人は、神(教会)、という、旧い理念-旧い主人のシニフィアン、ではなく、人間理性-啓蒙主義、という、新たな理念-新たな主人のシニフィアン、になった、のである。
しかるに、もちろん、幻想-神話を、排除する、と称する、この新たな理念、人間理性-啓蒙主義-科学的合理主義、もまた、幻想-神話である。すなわち、それ自体、理念(主人のシニフィアン)の信仰、にすぎない、のである。


科学が、厳密(客観的真実)に見える、のは、厳密でない要素を、排除して、成り立っている、からである。すなわち、主観的な多様性を排除している、ために、客観的、なのである。
つまり、物質と運動(力学的な抽象-数学)、しか、扱わない、のである(自然が、それだけで成り立っていないのは、言うまでもないことである)、が、それを操作している、主体性-人間は、その外部に、放置されたまま、なのである。
この、情報を読み取る側の存在-主体の存在、の無視、と、物質(対象)に備わる、性質や属性だけを、冷徹に、記述-描写する営み、とは、相関している。


しかし、情報を議論できるのは、読み取る側の存在-主体の存在、なのであるから、その解釈を無視するわけには、いかないはず、なのである(しかるに、パラダイム、などの概念が、要請される)。それゆえ、まさに、その点が、科学の限界になる。
その限界を乗り越えようとする、安易な発想(方法-解決策)、として、心身二元論ではなく、唯物一元論を、強引に押し進める、ために、科学は、躍起になって、主体性-心-意識-人間-主観、をも、物質の流れ-脳-身体、へと、還元しようとする、のである、すなわち、すべてを、科学的描写-理論、の中に、内面化しようとする、のである(唯脳論、脳科学、など)、が、もちろん、このような試みが、不可能なことは、あらかじめ-始めから、自明である(そのため、科学は、いずれ、心のメカニズムを解明するだろう、と、大見得を切りつつ、過渡的には、心を、不思議、として、宙に吊ったまま、適当に、避けるか、ごまかすか、するだけ、なのである)。


というのも、主体性-主体化、という、過剰(余計なもの)が、前提としてなければ、科学-学問-知的営み、それ自体が、消滅する、のである(「われ思う、ゆえに、われあり」、は、この、過剰の表現である)。
たとえば、仮に、主体性-心-意識、のすべてを、科学的な理論の中に、描写し尽した、と、想像しよう。しかし、それを、読んで納得する主体性は、その理論の、不気味な例外、でなければ、この構図は、成り立たない、のである。もし、主体性が、その理論の中に回収され尽くされて、例外的な意識、としても、消滅する、としたら、そもそも、いったい、その理論は、何のためにあるのか、ということになる(自らの土台-根拠を崩すような行為-理論は、破綻する)。


ウロボロスの環、の蛇、のように、頭が、自分の尻尾(身体)を食べ始める、蛇は、その矛盾において、途中で、自滅する。
しかるに、頭と身体、すなわち、主体-自己、は、同じもの(身体)、であるが、同時に、別物、でもなければ、ならない-成り立たない、のである。このような、不可解な、非合理な、過剰(矛盾)こそが、心-意識である。
「われ思う、ゆえに、われあり」は、このような、不可解な、非合理な、過剰を、可能にする定式の表現、であり、己の身体性から、破綻せずに、逸脱していく、われ思う-われ疑う、という、主体化の無、を、こそ、あらわしている、のである。


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