そろそろマジで哲学しよう(われわれは哲学に興味がないはずがない 人生の完全な答を見つけ出すために)


主体化するわれわれ主体‐自己において、突然、われわれの存在の最も基本的なパターンと支えである日常生活の基盤(自然的基盤)が、偶然的で、あてにならないものに見えてくる。主体は、実体(自己的な実体)のない空虚として、まさに、そのような、自らの(自己の)徹底した偶然性の経験を引き受けなくてはならない。
主体は、「ライ麦畑でつかまえて」(サリンジャーの小説)の主人公のように、周囲のあらゆるもの(現実)が、インチキであり、ニセモノである、ように感じられる。主体化においては、日常生活の基盤そのものが、脅かされる(疑わしいものに見えてくる)、のである。


しかし、主体性が、常に、その場所に戻るべき(主体が依拠するところの)、主体性の次元への回路は、まさに、主体化自らの条件である、この、日常生活の基盤(公共の秩序)において、乱されている。そのため、われわれは、主体化を徹底することはできない。
したがって、主体は、自身を持って主体化に言及することはできない。他人と共有しうるような、主体性の次元についての、確固たる根拠を確証できないままに、主体化するわれわれは、周囲のあらゆるもの(現実)が、変である、ときちんと言う(断定する、公言する)ことはできず、「ライ麦畑でつかまえて」の主人公のように、曖昧に、なんとなく変だ、なんか変だ(なんとなくいやになる、なんだか悲しくなる)、というように、独り言をつぶやく、しかない、宙吊りの状態に置かれ、それを耐えるしかない。この開放と閉塞が同居するような状態は、決して、解決することはない。


われわれは、このように、自然的な基盤から遊離しているがゆえに、自然を支配し、利用することができる、が、同時に、まさに、その同じ理由によって、この自然からの寄る辺ない逸脱において、われわれは、自然を、完全には支配することはできない。
われわれは、秩序という、自然支配と、自然からの解放(決別)との、引き裂かれた中間領域にある(を彷徨う)のである。
外部の自然、すなわち、感覚によって提供された内容を内面化した直観は、われわれの想起において、外部の因果的空間‐時間的文脈から引き出され(切り離され)、われわれ(秩序)自身の内部空間‐時間に導入される。こうして、それは、いつでも自由に想起することのできる、偶然的要素として、われわれが、利用できるものになる、のであるが、この直観は、知性の中に移しかえられて、成分に分解されたり、別の非自然的な全体に組み合わせ直されたりする、ようになり、このような、内面化、普遍化、の過程を通じて、われわれは、外部(自然)から、だんだん解放されるようになる、のであるが、このように、地に足のついていないことで大地を支配する、われわれ主体‐自己の地位は、たいへん不安定で、曖昧なもの、なのである。


このことを端的に示すのが、言語への到達である。直観に、共通の標識を並べるようなわれわれの想像力は、何らかの外部の特徴と、それを代理(代表)する、個別的イメージとの類似とを結びつけることからはじまり、ついで、それは廃棄され、つまり、外部の意味内容と結びつくものは、まったくの恣意的なもの、要するに、外部とは切り離された(およそ無関係な)、恣意的な記号となる。
このように、まったくの恣意的なものになるとき、それは、自然から独立した、自律的な、真の普遍性に達する、のである。


こうして、語、に到達するのである以上、その言葉によって構築された世界が、インチキであり、ニセモノである、のは、至極、当然なのであるが、それは、まさに、われわれが実現した、唯一の自然‐現実そのものである、から、自然そのものとは別の、人工性である、という意味で、ではなく、そうではなく、普遍性を志向している空間構築でありながら、その根拠(普遍性の次元)を欠き、その回路を断たれてもいて、常に、中途半端な自然性へと頽落している、というところに、その不可能性(寄る辺なさ)がある、ということなのである。


要するに、われわれが、いつだって、苛立っている(落ち着かないでいる)のは、自然の中にも、普遍性の中にも、居場所がなく、そのために、いずれかの中にあるかのような、ふりをする、インチキ‐ニセモノ(イデオロギー)の中にどっぷりとつかる、他はないからなのである。
もちろん、問題は、われわれは、そのような幻想の中におさまっては(停滞しては)ならない、普遍化(主体化)の過程にある、ということである。われわれは、常に、過渡期としてあり、この過渡期は、主体化という過渡期、なのである。


「ライ麦畑でつかまえて」の主人公がとらえられている過渡期は、まさに、主体化の過渡期であり、大人(秩序的常識)へと至るための、成長という名の、予定調和的な過渡期ではない。
少年‐青年期という、人生における最大の主体化の好機を、秩序的な(現実主義的な)イデオロギー(公認の心理学)は、単なる大人への移行過程(思春期)にすりかえようとする。この、未熟から成熟へという、図式的な成長物語は、主体化を公認の心理(学)へと閉じ込める(抑圧する)ものであるが、それは、そのような、秩序が用意した公認の物語だけが、現実のすべてであると思い込ませようとするものなのである。
もちろん、この、秩序‐現実(という物語)は、ありとあらゆる可能性のすべてを網羅している。それ以外には、主体化、という不可能性の狂気(白熱する空無)、しかない、のである。