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ここにおいて、イデオロギーは、われわれの罪悪感を利用する。
普遍化の過程は、必ず、以前の内容を捨て去る(葬り去る)ことへの罪悪感(喪失感)を生み出す。イデオロギーは、常に、この罪悪感を、巧みに利用することで、それを処理する(それに対処する)知恵である。すなわち、イデオロギーは、この罪悪感を、普遍化に対する抵抗へと組織化するのであるが、しかし、この罪悪感を、普遍化のために利用する、のである。この普遍化への抵抗の形成は、まさに、この当の普遍化への手続きそのものにおいて、なされるのである。
つまり、実際には、遡及的な回顧(伝統回帰の願望的幻想)は、回顧的する立場の現実に与するものであり、そこで進行しつつある、新たな現実性をこそ、強化しているのである。
要するに、過去への憧憬とは、新たな現実的立場への移行(恭順)が生み出した、幻想的な回顧趣味(的慰め)にすぎないのである。
このように、全体主義は、民主主義内部の反目を利用するイデオロギーの肥大化であり、したがって、両者が、並行、共存、していることに、何ら不思議はない(革命後の共和制のもとで、ルイ=ナポレオン・ボナパルトは帝政を開始する)。
全体主義的な(自民族中心主義的な)人種差別すらが、民主主義の内部で行なわれうる(その誘惑に屈する)、のである(ナチスのユダヤ人の虐殺が民主主義のもとで起こっていること、近代の人種差別的な外国人排斥や異民族への侵略戦争が、民主主義のもとで起こっていることを思い出そう。理念的には全く民主主義的ではなく、単なる自民族中心主義なのである)。
教条的な、理想主義的(理念的)な、形式的民主主義は、あまりに非人間的であるために、純粋に、そのものとしては成立しないのである。
民主主義の要因でもある、資本主義においても、事態は同様である。
市場経済は、普遍的な等価交換のネットワークであるはずなのに、それをすり抜ける、剰余価値が生じてしまう。ここにも、形式的な正義‐平等に対する、それを支える条件としての、イデオロギー的な剰余享楽の幻想(欲望)がはたらいている。
要するに、純粋な普遍性(狂気)は、そのものとしては、不可能性としてある、ということなのである。
したがって、もし、新たな社会運動があるとすれば、それが単なるイデオロギー的な幻想にならないように見極める必要がある、はずである。そうでなければ、理想論的な、幻想的ユートピア志向は、それがどのような変革を提唱するものであっても、もともと、それが変えようとしている当の現実に織り込まれている、保守的なイデオロギーなのであり、その当の惰性的な現実を支えることにしかならない、ものだからである。
社会内の敵対抗争の場所、にこそ、イデオロギーがある(潜んでいる、棲息している)。
行動と信念の様式全体の、真のパラダイム(人生に対する態度)の変化は、主体化(狂気)によって、しかなされない。安易なユートピア構想(社会運動、政治的信条)は、むしろ、この、われわれの最も内面的な態度にまで影響を及ぼす、主体化(狂気)を、全面的に引き受けることの回避、としてある、イデオロギーなのである。そのような回避(抑圧)こそが、イデオロギーの、真の狙い、なのである。
イデオロギーとは、自身の欠落(欠点)を、決して認めまい、とする、幻想的な虚偽の身振りであり、その幻想を、当の欠落をもたらしている現実に貢献する(役立たせる)ように作用させる、無意識の、すべてを知っている知(狡知)、なのである。
