そろそろマジで哲学しよう(世界の終わり‐始まり)


主体化とは、決定(弁別)という原初の行為であり、それは、準超越論的で、非歴史的な、秩序の可能性の条件であり、それゆえ、同時に、秩序化(歴史化)を不可能にする条件でもある。
すなわち、そのような過剰としての主体化は、歴史(秩序)以前の現実(非現実としての現実)の惰性と、歴史性の領域(秩序の領域、存在の領域)、つまり、多様な、変動する、物語の領域、との間の溝を開く、過剰な身振りである。


われわれは、真実と称して、眼前に物語を構築し、提示する(物語とは、秩序から見た、自らの正当化である)が、その操作者(目撃者)たる主体を、その物語からはずしている。主体は、物語から安全な(影響を被らない)距離を保っているからこそ、主体たりうるのである。
それゆえ、そのような思考(物語)の可能性には、主体という、思考自らの条件を考慮に組み入れていない、という限界(不完全性)がある。したがって、すべての歴史化(秩序化)は、この溝を、すなわち、歴史以前の現実(非現実としての現実)から、歴史(秩序)への移行をやり直す必要がある。


われわれは、われわれの主体性の過剰を、歴史化のゲームをして、特定の歴史的脈絡の中に、必死になって、組み込もうとする。もちろん、その試みは、必然的に、はじめから失敗する運命にあるので、われわれ(物語)は、幻想に頼らざるを得ない。
物語というものは、突き詰めると、必ず、幻想に収斂していく。物語には始まりと終わりがあり、その前後の空白には、別の二次的な幻想的な物語が際限なくあてられるだけである。このような幻想性のために、つまり、幻想であるがゆえの執拗性のために、主体性が閉じ込められている歴史的必然性(因果論)の物語の中に、真の意味での歴史性(歴史の出来事性)の地平そのものを切り開く溝を、あらためて開き直している主体性の次元を識別しようとする試みは、歴史化の試みよりも、はるかに思惟の力を必要とする。


つまり、真の歴史性(出来事性)は、不可視的であり、すぐに歴史物語の中に幻想的に歪められて回収されてしまうために、歴史物語の必然性(因果論)が、一種の偶然的な自由の行使(出来事)によって可能となっていることをあきらかにする、偶然の言説(自由な言説)による構築の空間こそが、努力して維持されなければならず、とりもなおさず、それが主体性の次元なのであるが、要するに、主体化が、何度も何度もやり直され、獲得し直されなければならない、のである。


偶然の言説(自由な言説)による構築の空間は、真なる出来事(主体性の次元)に繋がっているが、歴史物語は、擬似事象であり、真正という姿(見かけ)をした、嘘(虚偽)である。
歴史物語の根本にあるのは、それ自身の起源である主体性の次元(出来事)の空白(空虚)を、隠蔽し、穴埋めする幻想であり、したがって、それは、内在的に真なる出来事に繋がっておらず、出来事をただ幻想的に模倣しているだけの、出来事の物語、という擬似事象を、模倣上演するだけの、幻想的な真実、という、実質のない、美的な、表層的な、イデオロギー的な、見世物、なのである。


幻想の核とは、自らのスキャンダル(中心の空虚、根拠の不在)を覆い隠すための暗い秘密であり、それは、秩序を支えるイデオロギー的な空想として機能する。この秩序の成員(メンバー)が抱える、同じ虚偽の自覚(うしろめたさ)こそ、秩序という集合的な凝集(仮想の虚構)を繋ぎとめる媒体の役割を果たすため、この歴史化(秩序化)のまさにその場で生じる、共有される幻想の信仰(盲信、狂信)は、執拗であり、最終的には、頑なな否認という態度としてあらわれる。つまり、仮に、内心では、真実に気づいて、自らの幻想という虚偽を認めても、なお、表面的(外面的)には、それを否認し通す(続ける)のである。
このように、われわれは、われわれの思考(認識)の特質として、繰り返し、物語に戻ってしまうのである。


このような、イデオロギー的な幻想性のお膳立てに乗ったままの、イデオロギー的な(物語的な)主体は、それゆえ、真の変化(出来事)を望まないために、そして、そうであるからこそ、むしろ、見せかけの変化に固執し、既成の思考の枠組みを温存したまま、その上で、変化の見世物(見せかけ)を、躍起になって演出する。
資本主義のイデオロギーとは、そうしたものであり、資本主義的な空間に飛び交う合言葉(キーワード)は、ニューライフ(変化)である。
昨今の美術状況には、大規模な観客参加型の作品があり、美術館という展示空間全体を利用して、そこに設えられた、遊具にも似た、異化装置(作品)に、観客を巻き込んで、観客の何らかの変化をうながす、と称する、そのような演出も、このようなイデオロギー的な状況の中にある。
このような近年の観客参加型の美術作品は、幻想的な物語の上に乗っかった、その立体的な具体化、という茶番であり、実際には何の変化ももたらさない、保守的な、単なる見せかけの変化の手慰み(手遊び)にすぎない。
実際には、眼前の物語装置を離れた、安全な距離を置いた意識が、一生懸命、善意の、自己満足の、人為的な変化のふりを操作し、変化の見せかけを計測しているだけなのである。