そろそろマジで哲学しよう(夢幻の自由走者に向けて)


主体性の次元は、われわれが決して認識することも、親密になることもできない、われわれの思考に統合できない、何かであり、われわれが自己(自分自身)を見失うこと(自己消失)によってのみ達成される、何か、なのであるが、しかし、自己が自己であるためには、そのような欠如が必要不可欠なのである。
したがって、自己は、自己であることの条件である、その欠如を、幻想という空想的な代理物によって穴埋めし、その行き詰まりを解決しなければならない。しかし、幻想は、その主体性の次元の空虚を隠す、その欠落を見えなくさせる、ためのものである、というばかりではなく、むしろ、そのような、そこを埋める要素なしには欠如はありえないので、幻想は、その純粋な空虚を想像的に見えるようにするための機能なのでもある。


つまり、幻想は、見せることによって見えなくさせる、というだけではなく、見えなくさせることで見せる、という機能でもあるのである。欠如を欠如そのものとして、そのまま放置できないので、そのために幻想が必要なのであり、そのようにして、われわれが自身の欠落を、幻想的に対処できるものにするのである。
したがって、幻想は、常に、不可視のものにあたりをつける、と同時に、それを隠蔽し続ける幻想のままでなくてはならない、のであるから、幻想の対象は、欲望される対象であるが、手に入りにくいもの、端的には、禁止されているもの、でなくてはならないのであるが、そのため、より根源的なレベルでは、欲望こそが、禁止するもの、すなわち、障害としての法をつくり出しているのである。
つまり、欲望と法とは、同一のもの、であり、宇宙の法そのものである、神とは、そのような欲望がつくり出す(生み出す)幻想なのである。


われわれは、禁止としての法のもとでこそ、様々な侵犯への欲望をかきたてられ、夢見て、禁じられた対象としての幻想を育み、組織することができるのである。
われわれは、そのようにして、自らの空虚の周囲をまわり続ける、一連の、公認の、欲望-幻想の対象の構造(手の込んだ欲望装置)をつくり上げるのである。そうして、そのような公的な欲望の装置の作動ぶりに、巻き込まれ、絡めとられている間は、われわれは、自身の空虚(主体性の次元)そのものに、対峙(直面)することを免れるふりを装うことができるのである。
われわれは、秩序的な法や道徳が、それが肯定する公認の財産目録をその網の目の中に書き込んだ後に、そこから排除されるような要素、すなわち、残滓、余剰、排泄物、的なものを、欲望の対象とすることで、秩序世界の自己完結的な環を幻想的に(想像的に)閉じるのである。


欲望とは、一種の言い訳(方便)であり、われわれ自身の限界と依存を、合理化して明示化する努力であるが、主体性の次元は、そのようなわれわれという自己の立場自体を、疑問に付すことを可能にする超越的な審級であり、自己の弁明(弁解)において、その自己申告される内容についてではなく、まさに、その発言の立場(場所)そのものについて、絶えず、疑問を投げかけることを可能にする視点の確保なのである。
つまり、主体性の次元の倫理的な義務とは、自己の言明自体を問う反省的な方法論を確立する究極の根拠であり、そのような反省的な方法論は、自己否定(自己懐疑)の徹底を課す限りにおいて、無謬なのである。


このように、主体性と自分自身とは、お互いに相容れないことで、お互いに近づくことができない限りで、自己を形づくり、実現するのであるから、われわれの秩序における、原初的な対立とは、この自己そのものであり、それゆえ、われわれは、本質的に、われわれ自身(自分)の統一性を、自分の外部に投影するのである。
それゆえ、われわれの主題は、常に、自己喪失であり、喪われた対象(自分の一部)との統一(再統一)なのである。われわれは、常に、自分には、本質的に何かが欠けている(奪われている)、と思うところのものなのである。
喪われた対象は、手の届かないところにあるものとして、幻想的に対象化され、それとの統一を、空想的に夢見つつも、それとの遭遇を周到に避けるようにする、その出会いを永遠に先送りし、目的化することを正当化する理論(経済)が形づくられ、われわれは、自ら、自分自身を、永遠に、その不毛な、エンドレスの過程に閉じ込めようとする習性(秩序)となるのである。