そろそろマジで哲学しよう(夢幻の自由走者に向けて)


われわれは、ポジティヴな実体であるが、その適切な表現を実現する、われわれの中のわれわれ以上の主体性(「私は・・・である」の、私は、という主語)は、実は、それ自身が、われわれの自己表現を妨害している当のもの(限界)、なのである。われわれは、自らの主体性によってこそ、まとまりのある統一体として対象化(実体化)されるのであるが、主体性そのものを、あるがままに知覚し始めると、われわれの実体的現実は、その整合性を失い始め、ある種の狂気へと巻き込まれて崩壊してしまうのである。


われわれは、自己というイメージの調和的整合性を保つためには、主体性(という狂気)をその代価として払わなくてはならないのであり、その自らの不可解な主体性の次元、という、その当の自己の整合性とは、正反対の、自己の無定形の残滓(過剰)を、心と名づけて、その抽象的な概念の中に、すなわち、意味作用の曖昧な機能を持つとされるブラックボックスとしての、その不透明な容器の中に、封じ込めるのである。
つまり、心は、解明され得ないもの、なのではなくて、はじめから、解明され得ないものを、心と名づけているのである。
主体性の次元は、直接的には、表象不可能なものであるが、逆に言えば、心とは、いわば、その、想念的な混沌、という曖昧なイメージから、類推的に、その主体性の次元を想起する方法である。


主体性の次元とは、われわれの、それぞれの個別的な身体的偏り(個性)のもとにある、感覚的な現実性を超越した普遍的な次元であり、それゆえに、それは、われわれには、根本的に表象不可能な対象なのである。
ということは、それは、感覚的な(身体的な)われわれを、否定する次元なのである、ということであり、われわれを病的な偏りとして退けるような、純粋な精神的な次元なのであるが、しかしながら、それも、まさに、われわれ自身である、という、奇妙に捩れた、奇怪な、非対称的な構造が、不可解とされる、心の構造なのである。
この身体+精神という、不調和な調和としての自己を実現する機制が成り立つためには、主体性の次元は、常に、身体+精神としての自己を超越する性質でなければならないために、定義上、われわれ(自己)は、決して、そのレベルに追いつくことはないのである。これが、われわれの中のわれわれ以上のもの、という、主体性の次元の不気味さ(不可解さ)である。


主体性の次元は、偏りのない、至高の正しさ(公明正大さ)としての善であり、文明は自ずとそれを求めているのは、まさに、その次元があるからこそで、しかしながら、と同時に、主体性の次元は、何か、悪にも近いものであり、われわれの、素朴な、蒙昧な、生のまどろみを許さない、牧歌的な野蛮さを超克するように求める、過酷な命令(使命)をわれわれに果たす審級として、常に、既存の保守的な秩序を否定する(破壊する)ものなのである。
したがって、われわれは、身体+精神としての自己であることによって、無数の偏りの諸段階にある他はないのであり、統一不可能な善悪の諸観念を、心という概念の中に閉じ込めることで、曖昧に、強引に、適当にやり過ごすのである。


ゆえに、心の底から、よく考えてみろ、と言われても、それが、人によって、何を意味するのかは、つまり、限定的な共同体的道徳を指すのか、もっと普遍的な倫理的使命を指すのかは、判然としないままなのであり、イデオロギー的な操作とは、この曖昧な心という概念を、逆手にとって、都合のいいように利用する、その空隙の暗黙の了解を形づくる手管の最大活用によって、心を着色する(汚染する)方法論なのである。
われわれが、真摯に、心というものを受け止めるとすれば、それは、狂気をこそ、封じ込めているものである、ということを認める(直視する)ことである。われわれは、自己の適切な表現を妨害されているところの、不可解な存在である、という事実(本質)に、誠実に向き合わなくてはならないのである。


われわれを、単なる実体(身体)として、単純に、自己表現した場合、われわれは、無限の宇宙の圧倒的な全体性の中の、とるに足らない有限性にすぎないものになる。
ところが、この、有限の実体の内的世界が妨害されていることこそが、まさに、実際にも、この宇宙そのものを実現している(可能にしている)、ということに、気がつかなければならないのである。