息子(的人格)とは、失うべきものを持たない、あらゆる根拠を奪われた、純粋な主体(空虚な主体性)である。
反対に、父権的支配者(的人格)とは、実際には従僕であり、すべてをなげうつ覚悟ができていないために、真理(神)という幻想に頼らざるを得ず、自らの主権をその架空の権威に預けている(したがって、入れ子状に父権のヒエラルキーを形成する)。
父権的支配者は、自分の周囲の物質的世界に、自分の出自としての現実に、つまりは、自分の特殊な肉体的現実に、繋ぎとめられているために、自由ではなく、単なる動物的な利害へと、単なる現世の土の掟へと偏心化し、散逸する力学の中にとらわれていて、秩序的現実という、首尾一貫した構築物を維持するための空無の中心、という根拠を欠いているために、その空無の代用品としての想像的な権威、すなわち、真理という幻想、としての、イデオロギーの崇高な対象を、自らの主人(根拠)として設定し、そこに従属する者として、自らの不完全性を正統化(正当化)しなければならないのである。
逆に言えば、神聖な(真正な)対象という、完全性を想定することで、父権的支配者は、自らの不完全性に留まり、そこに安住する権利(口実)を得るのである。
それとは反対に、息子は、父権(権威)を持たない者であり、つまりは、彼方の幻想的形象を持たず、現世の受肉としての出来事を、直接に生きる(信じる)のである。
息子は、出来事において、永遠の真理と直接に繋がるためのために、他の何よりも大きな意味を持つ、この現実の出来事という、限りある対象に関心を集中する(それこそが、愛である)。この出来事以外のすべてをなげうつ覚悟(愛)において獲得される自由こそ、まさに、改宗であり、すなわち、それは、永遠性を変えることなのである。
彼方の永遠性(超越的な永遠性)、という幻想との関係で自らを構成する、父権的支配者の観念的な欺瞞(そこにあるのは、実際には、永遠性の先送りだけである)から、具体的な永遠性へと参入する、息子的な行為へと移行すること、これが、改宗という、やり直し(生まれ変わり)、の具体的な可能性なのである。
父権的支配者は、メランコリーの主体である。このメランコリーの主体は、対象(真理、神)を手に入れられないことで、憂いを抱いている主体ではない。この主体は、あらかじめ、対象を手にしているのであるが、それには失望することを知っている主体である。もちろん、その対象が、思わせぶりな幻想にすぎないからである。
したがって、このメランコリーの主体は、対象を、失われたもの、として、つまり、永遠に手の届かない、無限の彼方のもの、として、扱わなければならない主体なのである。この主体の不安とは、対象が手に入らない不安ではなく、対象が、それへの欲望(希望)を失わせるようなものでしかないのではないか、という不安なのである。
それゆえ、偶像崇拝の禁止なのである。禁止(不可侵)こそが、その欲望を支えているのである。
ここには、奇妙な、手の込んだ駆け引きがある。対象自体、ではなく、失われている(禁じられている)対象に熱狂的に執着すること自体、が求められている、のである。さらには、相手(対象)からの拒絶ではなく、自らの禁止は、実際には、欲望の衰えとしての、対象への無関心が潜んでいる。つまり、結局、何も起こらないことを望んでいる、ということなのである。
このような機制の全体こそが、メランコリーの内実である。このような、不可解な、陰鬱な喪の作業は、息子にはないのである。
仮想的な真理との関係で自らを権威づける父権的支配者は、もとより、仮想現実にすんでいる。自らの現実の行為は、仮想の理念に根拠を持ち、それに基づいているからである。したがって、実在の人々を苦しめ、虐殺しても、何の問題もないように考えることが、実際にも、可能なのである(そのような例は、歴史上、ばかりか、現在においても、枚挙に暇がない)。
抽象的な理念(大義)の名のもとに、あらゆる行為の正当化が可能であり、思念は、その理念の中にだけ住んでいるからである。われわれは、秩序的な思考として、このような仮想現実(象徴世界)の住人なのである。
資本の帝国においては、実在の人々のことを、具体的に考えない(想像もしない)。実在の人々は、理念(資本)越しに、それを通じた上でしか、考えの対象にならないのである。
一方には、抽象的な理念的プランニングがあり、他方には、周囲の物質的現実に縛られた、肉体的(動物的)な現実性がある。この分業(資本と労働)により、資本(理念)の支配者は、自らが幻想的な真理(自由)の中にうまく住み、あたかも、自分には、不自由な肉体的現実などないかのように振る舞うのである。
このような仮想現実の中における、現実的な真理の顕現(介入)こそが、出来事なのである。それは、幻想的な真理の効果を無化するような形であらわれる、あまりにも、無媒介的な、距離を欠いた、真に具体的な出来事なのである。
この出来事の帰結を引き出す息子的な行為か、そうした積極的な永遠性の具体化の過程とは無縁のまま、幻想的な世界に住み、永遠性の永遠の待機としての父権的支配者の状態に留まり続けるか、いずれかの立場しかないのである。
