万人にとっての無用性としてこそ、真理は出来する。それでこそ、真理は、万人にとっての一となりうる。
有用性とは、常に、個別の特殊な秩序にとっての、特殊な益、であり、そのドグマである。
科学技術がその有用性において、近代以降の資本主義社会において、突出して評価されるのは、資本の支配によって拘束され、その体制に都合のいいように、単純化され、飼い慣らされた限りでの科学技術としてである。その上で、つまり、凡庸化された上で、科学技術は、資本のイデオロギーとしての、進歩主義的な幸福観を実現するための(あるいは、未来へ先送りするための)、社会にとって役に立つ、実用的な真理と見做され、他の様々な価値観(世界観)を包含し、縫合するような主要な真理の地位を獲得するのである。
そして、他方では、他の価値観のいくつか、すなわち、いまや反動となった、伝統的な、宗教的な価値観などが、郷愁に満ちた、漠然とした真理の名のもとに科学技術万能主義の蛮行を非難するのである。
資本主義内部の自由議会制における政治は、この真理の代名詞とも言うべき科学技術のもとにおける幸福の追求を無条件に目指し、もしくは、その他の価値観の可能性として、あくまで、科学技術万能主義的な価値観を補完し、補強するするような名目のもとに、すなわち、せいぜい慰み物として、文化的な、宗教的な、家族愛的な、要するに何か精神的な幸福感の追求を、いわば、二義的に目指す、そのようなプラグマティズム(実用主義)に専念する。
科学技術とは、本来、確立された知に還元不可能なものを無限に産出する能力である。しかし、科学技術は、政治的な管理、制限のもとで、そのような出来事性としての能力をあらかじめ剥奪された上で、資本に沿った単純なものとして矮小化されている。
そして、宗教、文化、愛、などもまた、政治的な管理、制限のもとで、ひどく単純な、単調な、センチメンタルな物語にすぎないものへと整理された上で、容認されているのである。
つまり、これら真理にまつわるような諸活動は、支配的な秩序にとっての有用性としてだけ、その活動を認められるのである。
ここで排除され、無視されているものは、無用性としての真理そのものである。他者化とは、この無用なるものへの他者化なのである。
プラグマティックな政治は、他者なる無用性を信用せず、上から調整可能な、矮小化された有用性だけを信じるのである。それゆえ、われわれがいまだ手にしていないものとしての真理を認め、それを信じるとしても、それは、現実の過剰や不定をも調整し、固定するであろう、万能の尺度としての完全な真理を、超越的な彼方に位置するであろうものとして、期待しているのである(要するに、すべての難題を解決してくれるような、万能の神の存在を期待するのである)。
しかし、そのような至高の真理(神)は、特殊な秩序から想像された、自らに都合のよい、手前勝手な幻想であり、自らを、そこへ至る過渡的な成果と見做して(自称して)、自己を正当化するものである。それは、自らの起源の忘却、真理に対する無知によってもたらされる。
実際には、現実の過剰の不定性こそが、自らの起源の出来事を形成しているのである。真理は、過剰な不定性を通じた出来事に依存する無限の産出なのであり、そのような真理に関わる出来事は、特殊な秩序からの他者化なのである。
それゆえ、特殊な秩序は、真理の成果であるにもかかわらず、そのような他者性を存在の法則に関わるものとして承認せず、むしろ、それに対する防護として自らを構成している、反真理的な体制なのである。
