イデオロギーが、究極のターゲットにしているのは、主体の空隙である。イデオロギーは、何もないところに、何かがある、と思わせるものなのである。イデオロギーとは、主体の無(無根拠)の深淵に対する(つまりは、他者性に対する)防御体制なのである。
それゆえ、つまり、何もないところに何かを見出そうとする(でっち上げる)イデオロギー的な無益さのために、消費文明における生は、挫折と虚しさに満ちている(を余儀なくされている)。
さらには、その挫折と虚しさの埋め合わせとして、イデオロギーによって、そこに充足を見出すように(身を捧げるように、自らを犠牲にして貢献するように)強いられている家族は、むしろ、個人のあらゆる欲望が邪魔されている、自分自身を満たすことのできない場所(ひどい場合には、どうにもならない解決不能の敵対的な憎悪の地獄と化す。人が、憂鬱、感情離脱などの症状を発症するのは、たいていは家族内においてである)なのである。
どこかには、何か(満足、充足)があるに違いない、というイデオロギー的妄想(幻想)が資本主義の原動力であり、地球規模の包括的な商品化を進行させるのであるが、逆説的に、そのような事態が示唆(指示)しているのは、われわれの恒常的な渇望(不満足、空虚)そのものの所在である。
このイデオロギー的な、物質的欲望、精神的欲望が、本来的に機能不全であることが露呈すると、溢れてしまった、そこに備給されていた過剰なエネルギーは、なおも、イデオロギー的な流れに沿って、このような現実の背後に喪われているもの、という主題へと向う。
すなわち、規範化された遵法的な主体における不満(慢性的な不充足)のイデオロギー的代替物は、侵犯的な暴力であり、戦争や反ユダヤ的な大虐殺や革命的暴動などは、その大規模な事例である。
したがって、家族愛などの根拠に基づいて、上記のような暴力の噴出に反対する人は、論点の的をはずしている。家族愛自体の根本的な行き詰まりが、それを引き起こすのであるから(ちなみに、キリストは、「親兄弟を捨てる者だけが、私のもとに来なさい」と言っており、その慧眼によって、事態の核芯を見抜いている)。
あるいは、その小規模な事例は、侵犯の内向としての、自己破壊的な暴力の噴出である。
イデオロギーの二重化されたメッセージ、つまり、何もないところに、何か(すなわち、充足)を見出せ、は、突き詰めれば、自己破壊的な昂揚ににとりつかれた、亡霊的な人格を生み出す。
自己破壊(脱組織化への退歩)というスペクタクルが、究極の倒錯的な快楽となるのである(資本主義的な発展は、絶えざる自己破壊をばねにしてはいないだろうか)。この傾向は、むろん、絶滅への狂乱に向うものである。
このような実情へと雪崩れるのは、イデオロギーが、もともと、実のない幻想(何もない、よりは、嘘の方がましだ、というような)だからである。イデオロギー的なユートピア(夢)は、現実的なディストピア(悪夢)を招来するのである。
これとは正反対の方向は、主体の無根拠(他者性)を直に受け止めることであるが、それは、領土化(秩序化)に抗う、絶えざる脱領土化という狂気なのである。
秩序とは、物語であり、イデオロギーは、物語の分節化作用である。それらは、われわれの解消不能の欠落(狂気)を埋め合わせようとするものであるが、そのような喪われた環を閉じようとする試みに失敗することこそが、他ならぬ秩序自体が成立するための条件なのである。
