そろそろマジで哲学しよう


われわれ主体は、自己の他者化という二重構造のために、生と死の間の振幅の中に自らの生を構造化している。すなわち、自己とは、生(利己的な保身)へと向う存在様態(現実原則、エロス)であり、他者化とは、死(逸脱)へと向う存在様態(死の欲動、タナトス)である。われわれ主体とは、この振動の内部の混合状態(混乱)である。


たとえば、戦争とは、人によって、一方では、大義のために死を賭す崇高な行為、であり、他方では、単なる悪夢、救いようのない浪費、理解不能な(理不尽な)狂気、である。要するに、人間の人生にとって、死に値するものがある、と思えるか、死に値するものなどない、と思えるか、であり、われわれは、その間で、決定不能のまま揺れ動いているのである。
快楽原則(エロス)は、均衡と満足に沿っているが、死の欲動(タナトス)は、それを超える不安定で過剰な享楽へ向う衝動である。したがって、日常的な快楽(幸福)を放棄する戦争には、それなりの享楽の備給があるのである。
英雄の観点は、歴史的使命(責任)など、そのためには自分の生をも乗り越える、究極の死すべき価値を求める(見出す)ものである。快楽主義的な末人の観点は、人生には、究極の意味などなく、人生の目的は、危険な過剰を避け、個人的な快楽と幸福を追求するものである。


愛も、このような生と死において分節化される。
地上的な愛は、動物的な理想を求め、生存のための適者としての完全な対象へ向い、しかし、現実には、その不完全な対象、すなわち、偶発的な特定の個性(質)に向う他ないものである。
一方、至上の愛は、無差別の愛、はじめから、あらゆる不完全な対象への愛である。ここでの理想は、完全なものではなく、むしろ、超地上的な(超動物的な)理想、すなわち、死である。というのも、もはや、人間の特定の個性や特徴に左右されない、偏愛に執着しない人間愛は、その無差別性において、つまり、相手の具体的な生を無視することにおいて、真に、普遍的なもの(抽象的な理想)となりうるからである。


一方には、動物的な生への拘泥があり、常に、保守的な態度をとり、幸福で安全で心地よい生活を送ることに執着する。他方には、動物的な生との関係を絶つ主体性があり、絶対的な気まぐれ(つまり、他者化)に身を任すのである。
われわれが、自然(本性)から脱して、秩序を形づくるのは、こうした二重化の局面においてである。つまり、秩序とは、本能(自然性)からのラディカルな自律を切り開くことである。われわれは、それを、功利主義的に実践するのではない。それは、純然たる気まぐれ、というべき、他者化、に基づいている。
他者化は、われわれのアプリオリな性向であり、秩序は、むしろ、それを制約するものであるから、われわれにとって、他者化の制限(抑圧)である秩序を断ち切ろうとすることは、人間の自律と自由の能力を開く行為と等しい、ということになるのであるが、その根拠は、空無(死)なのである。


われわれが、実定的な根拠に基づいて、すなわち、実定的な道徳や善の論理に基づいて、行動する時、無に等しいような何か崇高な無条件の義務に責任を負うどころか、そのような大義名分のもとにおいて、必ず、特定の立場にまつわる病的な動機に汚染され、偏った利害に傾斜する、すなわち、動物的な利己主義による曲解へと、もしくは、ルサンチマンなど不純な情動に突き動かされた単なる破局願望へと、頽落するのである。
アダムが林檎をかじったのは、この純然たる気まぐれ(向こう見ず)と愚かな堕落という二重性においてなのである。