われわれの他者化による引きこもりは、生成流転のさなかからの退隠であり、それによってわれわれは、観想(テオーリア)と実践(プラクシス)の混合物という謎めいた存在としての主体となる。
われわれは、この不可解な謎(混乱)において、実体の中に亀裂を打ち込む無の力となるのである。
主体が知の対象としてとらえる世界の中に、主体の場所はなく、主体は、その外部の観察者としての無(虚欠)なのである。無(虚欠)としての主体は、自らの相関物を対象の中に探し求めようとする。主体は、対象の中に主体の位置を書き込まなくてはならないのである。というのも、主体は、自らの世界という全体性の中の矛盾点である余計なものとしての自らを、何とかその整合性のもとに合理化しなければならないからである。
そのような主体の相関物こそ、ものの本質である。主体が現象という表面を覆う対象の背後に潜む本質を把握しようと努力することは、純粋に知的な探究として、与えられたものを知的に把握する自らの活動に対応する、物事を産出する(生成する)力としての本質を論理的構造のもとに描き出そうとするものである。
したがって、本質とは、論理に沿って創り上げられる概念操作の結果として、抽象的な理論にならざるを得ない。
主体が対象から分離していることの反映であるために、現象と本質とは、最終的には、決して一つのものに組み合わさってはいかない。それは、日常的な現実の中では出会わない、純粋に論理的な過程とならざるを得ないものとして、主体自身の相関物、すなわち、主体の無(他者性)の相関物なのである。
つまり、主体(本質)とは、対象(現象)の中に完全に実現されることを妨げられている限りにおいて存在するものとしてあらわれる他はないものなのである。日常生活からかけ離れたような抽象的な理論、現実離れしたような理屈、小難しくて何のことだかさっぱりわからない議論は、われわれがまさに主体であるために(である以上)、あらわれざるを得ない、必要不可欠なものなのである。
われわれのこの現実の生活があるためには、単なる対象となる一群があればいいだけではなく、そのような難解な理論の創造なしにはすまされず、それがあくまでも理解し難いものとしてなければならないのである。
