そろそろマジで哲学しよう


われわれは、秩序的世界(社会、共同体)に入るのと引き換えに、必要な代価として大切な何かを断念しなければならない、という外部幻想(喪失の物語)を抱いている。
伝統的な社会(古典的な社会)においては、伝統的権威の力によって、そのような外部幻想は抑え込まれている(抑圧されている)、もしくは、人々は、少なくとも、自分たちが何かを奪われ、喪っているのは、権威のために、自らの運命的な従属的な地位のために、そうなっているのである、という意識的、無意識的な納得(合理化)やあきらめのもとに、それを受け入れることができる。
しかし、民主主義的な世界(現代社会)においては、この権威(権力)の座は、空位であり、そこを占めているのは自由、平等といった民主主義的な理念である。この自由、平等という空虚な理念の意義は、自らは何ら積極的な主張を持たないが、特定の誰かが、この中心的権威(権力)の座を独占することだけは決して許さない、というものである。
このことは、抑圧されていた外部幻想の解放を意味しており、それは、民主主義の確立とともに生まれる権利という概念によって表現される。すなわち、自由、平等という理念は、人々の様々な権利を認める法の実現化によって実践的に遂行されるのである。このような過程は、われわれが奪われているもの、喪っているものをとり戻す、という幻想的な過程に重なっている。権利とは、秩序によって奪われた喪失をとり戻す権利なのである。


われわれは、喪ったものは、実際には何もない(秩序以前には何も存在しない)。それがあるとすれば、秩序世界から遡及的に想定された(見出された)、後から発明されたものである(にすぎない)。したがって、権利は、無限に発明され、無限に獲得されるべきものとなる。
権利の要求は、現実に存在する不当な差別や不平等を改善し、撤廃していく、という必要な作業である以上の情熱を意味している。喪ったものは存在しないのであるから、それゆえ、つまり、決して獲得されることのない、決して埋め合わせられることのない、決して満たされることのない、単なる喪失感だけの底なしの幻想であるため、われわれは、無限の範囲にわたる権利を要求することになるのである。


権利は、あらゆるものに与えられ、適用された場合、その意味を失う。あらゆるものに与えられた権利が対立し合うようになれば、つまり、相対するものものに与えられた権利で溢れ返ってしまえば、事実上、権利はないも同然となって意味をなさなくなる(たとえば、動物や植物など、あらゆるものの権利まで考慮に入れたら、われわれは身動きがとれなくなる)。
権利は、強大な権威と戦っている弱者という部分的なもの、一部のものである限りにおいて有効に機能する。しかし、民主主義では、すべての人が権力者なのであり、従属者なのである。そこで、際限のない権利要求がなされるとすれば、それは、現実的な態度ではなく、権利を際限なく開拓しようとする外部幻想なのである。


われわれは、秩序的な思考と外部幻想という根源的に不均衡な(非対称的な)関係によって構造化され、動機づけられている。それゆえ、喪われたものは回復されるべき対象である、とされる一方で、それは、近づきすぎることを警戒しなければならない拒絶の対象でもあり(それを排除することでわれわれの思考は成り立っているのであるから)、さらには、そもそも、それは、定義上、それが何であるかを真に知り得ない対象なのである(結局のところ存在しないのであるし)。
このような外部幻想の根本的な行き詰まりは、そのまま現実に反映され、そのような窮地を短絡的に解消する方法としてあらわれることになる。
それは、行き詰まりのすべてを他者に押しつける、他者のせいにすることである。われわれが大切なものを奪われて(喪って)いるのは、他者(やつら)のせい、すなわち、他国の、他の民族集団の、異教徒の、他の人種の、せいである、とするのである。
あるいは、喪われたものを、知りたくない(見たくない)、それとの適切な距離を保っておきたい(近づきたくない、近づくべきでない)と思うために、そのような余剰な何かを体現するものとして他者にそれをなすりつけ、他者を仮想敵視して排除(排撃)の対象とするのである。


伝統的な(古典的な)社会においては、他者差別(人種差別)は、それぞれの共同体が自らのアイデンティティの確認を背景として、それを補完するものとして登場する。
民主主義的な世界においては、他者差別(人種差別)は、外部幻想(喪失の物語)をめぐる権利の問題として浮上するのである。つまり、他者から、他者によって奪われているものを取り返す権利、もしくは、他者が自分に近づきすぎないようにする、自分を守る権利を主張することになるのである。
それゆえ、このような反映として、移民の移住する権利が主張され、一方で、自国の固有の文化を守る権利が主張される、移民労働者の労働の自由の権利が主張され、一方で、移民によって職を奪われない国民の権利が主張される、民主主義を世界に広げる(虐げられている人々を救済する)権利が主張され、一方で、民主主義化しない権利が主張される(反対の立場も尊重するのが民主主義である)、のであるが、このような権利の対立の中で、権利の主張は、他者差別(他者憎悪)の主張と見分け難くなるのである。