そろそろマジで哲学しよう


われわれの善とは、通常は、秩序(共同体)の善(道徳)である。
しかし、外部幻想(秩序が自己否定的に想定する自身の外部性)としての超越的な善の観点からとらえ返せば、秩序(共同体)とは、常に、不完全な仮初の体制(虚構のシステム)にすぎない。すなわち、偶然的で病的な偏りのあるわれわれがつくる秩序は、われわれの抱くより高い理想(という外部幻想)からすれば、必ずしも万全なもの(完璧なもの)とは言い難いのである。


外部幻想としての超越的な理念(真理、神)は、われわれの歴史を導く(統整する)必然的な明白な倫理的規範(普遍的な道徳法)と考えられ、それに較べれば、秩序的な(共同体的な)道徳は、われわれの現実原則(快楽原則、利益原則)に根ざした利己的な不純なものであり、両者が一致しないのであれば(齟齬をきたしているのであれば)、われわれは、迷うことなく前者を選ぶべきである、とされるのである(革命は、まさにそれにあたる)。


一方、不道徳(堕落、頽廃)にも、それなりの理があるとされる。
われわれは、偏った秩序(共同体)の善によって、自分自身の大切な何かを喪っている(奪われている)という外部幻想を抱いている。高尚な理念のように、何らかの確固とした道徳的原理に基づくわけではないが、それでもわれわれは、ある種の悪(無法)へのあこがれを抱いている。
秩序(共同体)に服従する(飼い馴らされる)というわれわれの妥協によって見失われた秩序以前の、無垢な、裸の人間性のようなものが、悪(無法)においてとり戻せるのではないか、と漠然と期待する(短絡する)のである。それは、自分の快楽や利益を追求するというのではない、むしろ、自己放棄的な、自暴自棄の恍惚のようなものに、神話的な始原的な輝きを放つ粗暴な(粗野な)世界の再現を垣間見ることができるかのように思うのである。
しかし、そのような純粋な悪(まだ善と悪が分かれていないような、無心としての野蛮な世界)は、結局、理念的なものであり、われわれは、すぐに、己の快楽や利益を追求する利己的な計算と貪欲によって動機づけられた、単なる通常の自堕落な悪へと墜落するのである。


倫理、悪、いずれにしても、そのような外部幻想は、われわれの手の届かない理想であり、結局のところ、われわれは、現実原則(公共の善)のために、それらへの信念について妥協せざるを得ない(あきらめざるを得ない)のであり、秩序(共同体)的な善は、そのための言い訳として利用される、われわれが逃げ込む砦なのである。
つまり、あまりに厳しすぎる外部幻想の要請、純粋(純潔)であることへの要求(決してあきらめるな、という命令)から逃れる(身を守る)ためにこそ、現実的な(世俗的な)法としての一般的な凡庸な道徳(善、すなわち、善男善女たること)がある、とも言いうるのである。


非合法的である上に、妥協を許さぬ過酷な理念的追求に耐え切れないわれわれは、その実践を体現しているような他者に自分の代理を務めてもらおうとする、もしくは、そのような他者を通じて、間接的に、それ(理念)に触れようとする。それゆえ、われわれは、聖人、悪人、に目を奪われ、心惹かれ、そのような他者を英雄視する(カリスマ的人物と見做す)ことになる。いわば、外部幻想は、現実の他者へと重ねられる(擬人化される)のである。
しかし、われわれは、そのような他者を必ずしも敬い、尊敬するというばかりではない。あまりに強すぎる外部幻想の魅惑は、われわれを虜にもするが、逆に、その余剰な力は、通常の自己を喪失(破綻)させかねない、現実のバランスを崩しかねない力でもあるから、耐え難い嫌悪(反撥)の対象ともなるのである。
したがって、英雄は、厚遇され、神格化される、というばかりでなく、尊敬されていたかと思うと、一転して、弾圧され、排除の対象ともなり、人々によって唾棄される者、迫害される者へと変ずるのである(キリストは、そういう目に合ってはいないだろうか。体制崩壊とともに、体制のカリスマ的な指導者の、高みに聳え立っていた像が打ち倒され、地に引き摺り下ろされ、少し前までは、その人物像を崇め奉っていた民衆の手によって粉々に破壊される、という陶酔が反撥へと節操もなく反転する、よく見かけられるお馴染みの印象深い光景を思い出そう)。


外部幻想は、なくてはならない余計なものであり、人々がそれに愛憎の態度を決めかねる戸惑いの対象なのである。人々は、極端を嫌い、極端なものに対する最低限の距離を維持する中庸を好むのであるし、その忘却さえ必要とするのであるが、しかし、まさにそのこと自体が、人々が外部幻想の誘惑の虜になる恐れを自覚し、隠している、ということを証言している。
正常な現実にしがみつこうとしても、現実は、すでに常に、外部幻想の支えのもとに分節化され、構造化されているのであるから、不可避的にわれわれは、両義的な蠱惑に見つめ返されているという煩悶に巻き込まれざるを得ないのである。
われわれは、現実にしがみつけばつくほど、得体の知れない罪悪感を覚え、すなわち、外部幻想に背信しているという罪の意識に苛まれ、いつのまにかそれに懐柔され、密かに脱現実への夢想を育んでしまうのであり、そのため、現実的なイデオロギーに挺身するうちに、知らぬ間に狂いが生じ、何らかの理想への狂信(ユートピア的な信仰)に横滑りしていったり、あるいは、背徳的な行為(自堕落な欲望)へと横滑りしていったりしてしまうのである(秩序的な善の運営者たる官僚が、一方では、奇妙な歪んだ自己正当化のもとに、卑猥な不正を繰り返すことを思い起こそう)。


外部幻想は、われわれの合法的な思考(秩序的思考)が処理(対処)できない非合法的な思考として、合法的思考の必要な裏面として、合法的思考に常につきまとって、合法的思考を自らへの裏切りとして断罪し、非合法へと誘う底なしの要求の圧力をかけてくるのである。
その誘惑によって、われわれは、高徳な行いを実践化することもあれば、身を滅ぼすこともあるのであるが、その原理からして外部幻想は、われわれの真の限界を乗り越えるものではない。
秩序的思考と外部幻想は、光と闇の関係であり、光は、それを取り巻く、それが届かぬ先の闇の領域の不気味な沈黙の存在感に圧倒されている。その闇の領域に光を当てると、その刹那、その中に安らっていたものの、一瞬の、この世ならぬ色彩の未体験の不実な妖しい輝きに、光は目を奪われ、幻惑されるのであるが、それは、すぐに、すべてを可視性へと回収する専制的な光の帝国へと内面化されてしまう。しかし、未知の闇は、先へと広がり、尽きることはないのである。
真の他者性とは、このような際限のない不毛な二元論的な思考自体を乗り越える契機なのである。