そろそろマジで哲学しよう


秩序と、その成立によって喪われている潜在的な可能性という外部幻想は、秩序の絶対的優位性を考えれば、そこから(そこにおいてはじめて)派生する二次的な(二義的な)性格のものであることがよくわかる。
潜在的な可能性というものは、秩序という現実性との対立を通してのみ、それとして対象化されるものにすぎない。そのような潜在的な可能性として、いかに不可視的な、到達不能な、事物の本質(真実)や理念が探究されようと、現実性は所与のものとして前提されている。
本質(真実)や理念が、いかに現実性から、それへの否定として遠ざかり、現実性を何か不足として、何か十全ではないものとして、その不完全性(不備、不具合)を問いに付し、現実性を本質(真実)や理念に基づく合理的な基盤(基礎)の上に再構築するものであろうと、その試みは、常に、現実性という確固たる事実存在を背景にしてなされるのである。


潜在的な可能性は、確固たる現実と対立する、という観点からとらえるなら、それは、単なる可能性にすぎず、現実的ではない想像物である。とはいえ、潜在的な可能性は、そもそも、その現実化は不要である、という身分であることによってこそ、統整的な理念という資格そのものとして、ある種の非実体的な現実性とでもいうべきものとして存在し、現に現実を、その可能性へと向けて傾斜させるという現実的効果を生み出す(たとえば、民主主義的な理念や自由という理念は、到達不能な、真には実現不能な、いわば、空理空論的な空疎な理念としてあり、それでも、それらに統整される現実のそれらの実現過程において、実際にある現実的な効果をもたらすことを通して、それらへ向けての現実的な闘争それ自体が、その遂行的な傾向性によってのみ顕現されるものとして、それらの存在感を証し立てるのである。したがって、それらの実現過程は、永久革命となる)。
潜在的な可能性自体は、それが現実化すると、そのとたんに、そのものとしては消失してしまう。この潜在的な可能性がもたらす現実的な効果の運動全体は、われわれの生の形態(生の特徴)そのものである、自己否定的な運動である。われわれは、他なる理念を自己否定的に想定して、それに基づいて自らを疑義に付し、試練にかけるのである。よって、この運動は、自己言及的であり、理念を求める活動を介して、はじめてそれ(理念)は、ある、ところのものになるのである。これは、他者化への衝動という、われわれ自身の根源的な謎である。


われわれの現実性(秩序世界)とは、事後的に回顧する視点が再構成する統一的な世界である。この現実性の存在論的統一が前提となる。
そこから派生する二次的な身分の外部幻想に基づく思考によって、先行する、この回顧する視点という主体の活動自体が問いに付される。すなわち、その活動が、その主体の背後の何らかの理念的必然性に支配されている、と見做される、あるいは、その活動が、不可視の巨大な因果性のメカニズムの力の単なる歯車の一つにすぎない、と見做される、あるいは、その活動が、限りなく自発的な自律的な実存主義的なプラクシス(実践)であると見做される。しかし、そのように、諸々の読み込み(解釈)が可能であっても、いずれにしても、前提となる現実性には、何の変わりもないのである。
外部幻想により、つまり、外部幻想的な逆転(本末の転倒、遠近法の倒錯)により、われわれの現実性は、一種の偶然的な、表層的な見かけの世界であり、いまだ知られざる必然性(潜在的な可能性)が存在する、と考えられるようになる。皮相な表面的現実の背後に、そこでは喪われている、基底をなす本質的な何か(真実)がある、というように、外部幻想が密かに実体化され、現実がその不完全な仮象のように見做される(扱われる)のである。
そのような本質主義的な認識によれば、この潜在的な可能性(事物の本質)が不完全に現実化されたものが偶然性であり、潜在的な可能性(事物の本質)と現実との安定的な統一が実現したものが必然性であるとされる。
しかし、真に必然的であるのは、この現実性に対する外部幻想の想定自体の必然性なのである。


われわれの意識とは独立して絶えず変転する現実(真の客観的現実とされるもの)の下には、何か本質的な固い核(真理)のようなものがある、と外部幻想は見做すのであるが、それは、秩序という現実性に対応する外部的な幻想的相関物なのである。その幻想物に基づいた発想においては、現実の対象の統一は、対象自身の内部にもともと備わっている潜在的な可能性の現実化(自己実現)であるということになるのであるが、実際には、それよりも先んじて、対象の現実化(存在化)は、主体の回顧的な総合の活動の帰結(効果)なのである。