そろそろマジで哲学しよう


ある共同体(秩序)は、他者性という自らの起源(それ以前の因果連鎖からは説明のできない自由な行為によって因果的な結合を中断するという、その外傷的な、完全に孤絶するという狂気の、他者性の次元)を抹消して、自らのその外的な前提を幻想的な起源神話(物語)によって内的契機として措定するや否や、均衡したシステムとして、自らの共時的な全体性を確立する。
すなわち、己を生み出した他者性に開かれた過程の未決の可能性を、自らの必然的契機へと書き直す(再構成する)ことで、その他者化の次元を不可視のものとした時に、自己の円環を閉じるのである。
つまり、このような共同体的全体性という普遍性の領域は、その妥当性が無効になるような、その掌握力が届き得ない、特異な他者性の点を事実上含んでいるのであるが、それを、そのものとしては隠蔽し、抑圧する限りにおいて完結し、自らの首尾一貫性を保つのである。


共同体内においては、あらゆる事物、事柄は、道具的な様相としてあらわれ、人間的活動と結びつけられ、意識の目標の実現へと方向づけられている。しかし、幻想的な起源の神話(物語)は、意識活動の生産物であるが、自発的な自然の力として機能しているような見かけをもつ幻想の点なのである。したがって、それは、人々にとって、目的も理由もない何かとして経験される特異な点、可能な経験の対象となりえない例外的な点を指し示している。
つまり、それは、神(真理)であり、意識の対象として、他の諸事物と同様に合目的性のしるしを帯びている対象なのではあるが、何らの目的にも奉仕しない力そのものとしてあらわれる逆説的な点、それ自身から始まる自発的な自由の点として想定されるのである。
世界(自然)においてはたらいている隠された目的を見分けようとする、つまり、世界の因果関係を丸ごと説明可能にしようとするわれわれが、われわれの有限性(無知)のために、世界をその内的必然性において把握できない、その欠如に、神(真理)は具体性を与えてくれる、つまり、神(真理)は、世界に自らの目的を付与する超越的な最高原理として想定されるのである。


言い方を変えると、こういうことである。
われわれの世界、現象の領野の、全体を把握すること、因果連鎖を完結させることは、われわれにはできない。全体を把握しようとすると、そこから全体を把握するような地点としての、全体の外側(外部)が要請されてしまうから、全体は完結せず、全体ではなくなってしまうのである。
この苦境(二律背反、すなわち、秩序において、全体は把握されるのでなければならない、が、全体は把握し得ない)を解決するために、同じ時空の系列にある要素ではない、別の存在論的オーダーに属する、原因(根拠)そのものであるような対象を仮定(仮想)せざるを得ないのである。
つまり、それは、われわれの知性そのもののことであり、われわれの他なる視点(他者化する自己、自己関係する純粋な考える私、私自身であると同時に私の一部ではない空虚な主体性)そのもののことなのであるが、その矛盾(自己であり、他者である、という自己分裂の矛盾、世界の一部であり、世界の一部でない、という存在の充実に裂け目をもたらす矛盾)をそのものとしては肯定できないために、われわれではないところに、最終的な知性の保証人である神(真理)を、非在の存在として幻想的に設定せざるを得ないのである。


そのような叡知的ポジションを占める例外的な要素、そのような想定された因果連鎖の外部の自発的な原因(根拠)の点(それ自身から因果連鎖が開始される原因の点)を指示することで、共同体の領野を限界づけ、閉域(自己完結的な世界)へと仕立て上げるのである。この共同体の起源の神話の場を占める神(真理)の次元は、それゆえ、個別の主体に知りうるものではない。もし、知りうるものであったら、叡知という普遍は、個別(特殊)へと暴落し、単なる因果連鎖の一契機へと繰り込まれ、その内部に解消してしまうからである。
われわれは、神に近づけないのではなく、われわれが近づけないものとして神を想定するのであり、そうでなければ、この秩序という全体性にとって必要不可欠なこの幻想の次元が成り立たないのである。われわれの有限性(無知)こそが、この秩序という普遍的な世界の積極的な条件であり、この秩序世界を維持するために、われわれは、自らの有限性(無知)にしがみつかなくてはならず、神(真理)へのアプローチの際に、自らを足りないものとして懐疑し続けるのである。
民主主義という理念が国家主義(共同体主義、ナショナリズム)と矛盾しないのは、そのためである。民主主義的な普遍の場は、すべての偏った病的な内容(身体)を、その場の空位から排除するものであるが、その空隙を国家(共同体)の幻想的大儀が満たすのである。