具体的な肉体と抽象的な精神の対立は、外部の社会的規則と内なる道徳法則(倫理)との対立に等しい。
社会的規則は、現実の諸主体間のコミュニケーション(諸主体の共存)を規定する客観的な規則(規範)である。それは、その場その場の状況に応じた、フレキシブルなプラグマテックな規則であり、相対的な、合理的な善(調和)の模索である。道徳法則は、精神が自己否定的に(肉体的な拘束や限界を乗り越えるようにして)想定する理念(理想、普遍性)であり、現実的な社会的規則の不可避的な歪みや偏り(常に、功利的な利己主義の無数の利害関係を調整する日和見的な妥協案にすぎない)に対する否定である。
つまり、社会的規則は、現実的に可能と見做されていることの範囲内が直接の思考の対象であり、道徳法則は、そのような個別の偏った利害や関心にとらわれない、精神におけるもっとラディカルな自由の行為の実践である。
道徳法則は、抽象的な概念であるがゆえに絶対的であり、状況に関わりなく(とらわれずに)、その意味では、根拠や理由づけさえない(必要としない)。つまり、それは、究極的には、神(超越的な絶対的な法、理念)である。通常の共同体では、両者は、社会的規則と道徳法則は、せめぎ合い、絡まり合い、錯綜している。
狂信者(過激な道徳主義者、熱心な信仰者)においては、神(法、理念)は、絶対視される。神(法、理念)の命令は、社会的規則をも打ち砕く、暴力的な介入である(それは、外部からやってくるように直に内部にあらわれる、のである)。それは、社会的規則の側からは、決してアプローチできず、現実感覚には理解し難い超越性である。狂信者は、そのような内面法を徹底的に遵守するが、通常の人々(熱烈な信を持たない人々)には、その過酷な、自分以外に根拠をもたないというその不合理な要求(命令)は耐え難いものであり、むしろ、そのために、それを回避するためにこそ、社会的規則(現実の快楽原則)にしがみつくのである。
しかし、およそ、社会的権力というものが、自らの覇権を要求するようになるのは、そのような超越的な絶対的な理念(法、神)の現実化を目指すから(それに突き動かされるから)であり、また、自らの正当性(権威)を主張する場合、そのような理念(法、神)に依拠せざるを得ない。権力(者)の背後にそのような理念(法、神)の後ろ盾がなければ、つまり、権力は、その代理執行であるという大儀(名目、体裁)がなければ、その実践は単に恣意的なものにならざるをえない。
しかしながら、自らの覇権行為は、理念(法、神)の現実化の実践である、と権力(者)が誇示(宣誓)する場合でも、それは、理念(法、神)の歪曲形にならざるをえない。権力(者)は、その現実化に不可避的に失敗する。その失敗(権威の失墜)において、権力(者)は、単なる狂信者となってしまい、そのとたん、掲げられていた理念(法、神)は、あくまで空疎(空虚)なものに変わってしまうのである。
また、狂信者が現実の権力を目指さない場合、狂信者は神秘主義者になってしまう。神秘主義者とは、言葉で表現できないものに没入し、それを言葉で示すことを軽蔑(拒否)することによって、孤絶した位置に埋没してしまう者である。
ユダヤ主義者の場合は、この理念(法、神)の現実化を拒否するのであるが、その内なる法は、自らが見出すものではない。それは、外部(他者)から押しつけられた、特殊な決め事なのである。起源に位置する、固有の外傷的な出来事、ユダヤ人自身にとっても認知不可能な暴力的な出来事、への忠誠なのである。その固執(忠誠の維持)により、共同体的な社会的規則を拒絶し、法(神、理念)は主体的な歪みや偏りに影響されず、現実的な利害の反映を受けずに純化されるのである。
法(神、理念)は、その代替不可能な具体的な繋留点につなぎとめられていることによって、空虚な抽象的思考(思念)の硬直化を免れ、常に、具体的な生気を保ち続ける。このような偶像化(内面化)の禁止によって秘匿された、起源の外傷的な出来事(点)を自らの唯一の支えとすることにおいて、ユダヤ人は特異であり、共同体内部の異質な異物、その内部における残余(除け者)と見做され、そうであることによって、あらゆる共同体の特殊性を照らし出す参照点(零基準)となりうるような具体的な普遍性を獲得(体現)し、その唯一の支えによってこそ、土地(家)なき民としてのあらゆる試練を生き延びて、諸共同体の間に位置するようなアクチュアルな普遍性の次元を維持し続けてきたのである。
