外部からもたらされる法の原初的な暴力性と、それゆえのわれわれの自発的な法への服従、という法の成立の起源の出来事は、他者のもたらす(押しつける)不可解な禁止へと二重化によって同一化するわれわれの、自らの二重化に対する制限である。われわれは、自らを罪人(自己を逸脱する可能性のある者)としてみなすことで、秩序を成立させるのである。このような外部的な起源の出来事は、設立された秩序内には組み込まれない。秩序とは、自己完結的な包括的な全体性であるから、そのような外部性は、そのものとしては受け止められず、内面化され、自らに都合のよい合理的な物語へと書き換えられ(上書きされ)、隠蔽されるのである。
外的な力(圧力)の衝撃(トラウマ的な衝撃)は、自然化され、むしろ、自然成長的に秩序的均衡(法)が形作られたかのように装われ、理不尽な強要としての法は、われわれの考案した卑俗な正義や真理の実現化と見做される。このような世俗的な解釈や理解による、法の絶対的な性格から相対的な性格への権威の失墜(格下げ)は、いずれは、われわれの二重化を押さえ込めない(コントロールできない)事態をもたらしかねず、秩序の存続を危うくしかねない。
ユダヤ教(ユダヤ主義)の特異性は、この法の起源の暴力性、他者とわれわれとの絶対的な緊張度を維持し続けるというものである。他者の暴力性は、神(法)の暴力性という絶対的なものにまで高められる(神が自分たちを選んだのだ、という一方的な出来事を、神の代理であるモーセによって告げられる)。その法の偶像崇拝の禁止という命令により、神について一切語らず、その他者性を純化したまま保持し、また、約束の地(聖なる土地エルサレム)という理念(超越的な理想郷という幻想)により、地上における、いかなる土地(地域的な共同体)への帰属も拒絶する。それにより、ユダヤ人は、土地なき民、根無し草として、特定の地域に根ざすことなく、地上を彷徨い続けるという過酷な(過激な)定め(運命)を受け入れてきた(耐え忍んできた)のである。
このように、ユダヤ人は自らの有罪性を徹底化し、ひたすら神の救済(の約束)を待ち望むことによって、自らの二重化を制御する。逆に言えば、神への二重化によって確保される、制限された二重化を享受するのである。神(法)への絶対的な忠誠によって条件つきの自由を保障されるのである。恒常的な彷徨は、われわれの二重化による家出への欲望であるが、地域共同体におけるその空回りの行き詰まりを、さらに上位の空回り(約束の地という決して手の届かない究極の幻想を追い続けること)によって、とりあえず解決するのである。
特定の地域共同体においては、法は、自らが選んだものとして物語化され、秩序の支配者は、神(絶対的な理念)の代理を僭称する。それゆえ秩序の規範は、偶然的なこの世の支配者の理念に基づいて、つまり、偏った利害や関心に基づいて、形作られる。神(法)が自分たちを選んだのだ、というスタンス、つまり絶対的なものに固執するユダヤ人は、このような世俗的な、不純な、過ちの多い、相対的な秩序規範を拒絶する、そのような、動物な生へと傾斜した、堕落した理念(法)のもとでは、われわれの二重化は無秩序的になりかねないからである。
ユダヤ人の根無し草的な抽象性は、より普遍的な立場として、具体的な地域に根ざした共同体的秩序の幻想や限界を照らし出す外部の目を提供し、構成員の二重化による逸脱を招きかねないため、共同体にとっては危険な存在であり、ユダヤ人は、その秩序を脅かす者として共同体の怒りを買うことにもなる。共同体における全体論的な秩序は、ローカルな限定的な正義であるがゆえに、普遍的な正義を目指すユダヤ主義は、社会から絶縁する正義として、限定的な正義の不備(不正)に苦しむ人々の救済への可能性となりうるのである。
しかしながら、この自己放棄(犠牲)的な絶対的な神(法)への帰依は、逆に、神が存在してないことへの恐れでもある。神は存在しなければならない、という強迫は、逆の可能性を示唆しているともいえるのである。
そして、先延ばしし続けなければならない理想(約束の地)を現実化した(イスラエル建国)とたん、それは、理想の実現とはかけ離れた、ありふれた地域共同体へと墜落するのである。
