そろそろマジで哲学しよう


人間には二重化(超自)という根源的な過剰があるため、規律を通じた教育を必要とする。教育は、われわれの自然(野蛮)を手なずけることではなく、むしろ、自然からの逸脱を制御するものである。秩序にとって、二重化は浪費であり、自然のサイクルから逸脱する純然たる気まぐれに身を任すということであって、つまり、物質(事物)の流れに沿って自律的に自己展開してしまう(自由の)衝動なのであるが、それゆえ、秩序における、富、権力、繁栄を自己破壊する衝動にもつながりかねない。
自然状態において、人々は、二重化によって個々に独特の傾向を持った、それぞれの特定の利益、関心に裏打ちされて行動するため、そのような諸個人間の相互作用による、万人の万人に対する闘争状態にある。これを避け、秩序を形作るためには、一つの大きな力によって全員がまとめられなければ(統率されなければ)ならない。法の力、法を体現する者の力に全員が同調することによって(二重化による、強大なあるいは魅力的な他者への同化作用によって)、その力が逆に、権力として諸個人の乱脈な力(流れ)を統制し、調整しなければならない。
つまり、自由な諸個人が、功利主義的に自分の快楽(繁栄)を最大にしようとする行動は、結局のところ、各人の利害をコントロールする(操作する)支配者の立場を必要とする。要するに、社会にとって可能な善(繁栄)をもたらすことが第一義とされるのであり、それだけが唯一の、各人の実現可能な快楽(繁栄)であって、それを、つまり、社会的な繁栄をもたらすように各人が行動しなければならない、という規律(倫理)が形作られることになる。
しかし、このような法の力、無制限の権力(つまりは、原初的な暴力)は、結局のところ、恣意的であり(恣意的な誰かの力こそ掟である)、個人を守る(実現する)という見かけの裏面では、個人を圧殺するものでもある。


このような、主ー従という支配の関係は、避けがたいことなのではあるが(何しろ、個人はそれによって生まれ、育まれもするのであるから)、そうでない可能性を発している形象(身体)が一つだけある。それこそ、キリストなのである。キリストにおいて、究極の主人である神は、完全に退隠してしまい、事実上死んだも同然となり、いわば、主人の形象は潰え去り、いかなる主人的な(支配者的な)要素も持ち合わせてはいない、主人の代役でもない、孤立した息子(殺害された無力な息子)という形象が残される。われわれに唯一与えられるのは、純然たる息子の形象なのである。
この変化は大きなものである(劇的なものである)。われわれの思考の枠組みを規定しているのは、常に、主人のイメージとしての、想定された彼方の理念、高みの万能の父の存在(幻想)だからである。常にわれわれをとらえている、主ー従という関係は、中断され、今や、頼るべき(あてにすべき)主人なしで、われわれは、すべて等しくある無力な子として、子だけの協働として、生き始めなくては(模索し始めなくては)ならなくなるのである。もはや、完全さの約束ではなく(その怠惰な待機ではなく)、余分なものを一切取り払ったような、何らの特性もないみすぼらしい男としてのキリストという、不完全な息子(永遠の息子)に賭けなくてはならないのである。
これが、法の支配から、愛の支配への移行であろう。愛とは、約束された未来(完全さの幻想)を、粗末なものに対するほとんど無意味な情熱(執着)によって、ふいにすることであり、自らと周囲を犠牲にしてまでも、ある不可解な対象を偏愛することによって、均衡(という主ー従の概念)を切り崩してしまうことである。