宗教的信仰は、他人とは共有しえないような個人の内的な信念であると同時に、内的な瞑想などであるよりもはるかに、むしろ個人の外部の形式的な儀式的全体に関わっている。われわれは、信仰の対象の教義内容をよくよく勉強し、すべてと言わないまでも多くを理解した上で、その内的な確信に基づいて、信仰を始めるのではない。それどころか、むしろ、ほとんど何も知らないうちに信仰を始めるのであり、そればかりか、すでに信仰を続けていても、その教義内容を徹底的に詳しく理解しようとはしない場合もありうる(たとえば、仏教の信者でも、ありがたいと思いながらも、漢文の念仏の内容を知るものはあまりいないであろうし、キリスト教徒でも、誰もが聖書の立ち入った解釈に通じているわけではないであろう。カトリック教会では今でも、誰もが読めるわけではないラテン語の聖書が使われているという。人々にとっては、むしろ、教義はよくわからないこと、異なるものであること、外在的なものであることが必要なのである。もし、すべてわかっているのならば、自分の中に内在しているものであるならば、宗教は信じるという行為ではなく、単に自分の判断に従うだけの行為になってしまって、その意味を失う。宗教には、徹底した外在性と純粋な内在性が一致するというパラドクスが必要なのである)。
そして、実際には、信仰にとって、その信仰の対象をよく理解しているかどうかはあまり意味がない。むしろ、内面(真摯な信心)よりも、その形式(姿勢、振る舞い、外見)の方が大事なのである。信仰は、まずは信じるという意思表示、その振る舞い(外的な要素、形式的な儀式)がはじめにあり、それはわれわれが、われわれ自身の二重化によって、非日常的な何かへと溢れ出すことなのであるが、まずはじめに起こるその行動がもたらす新たな作用が、無意識に変化(変容)をもたらし、遡及的な因果によって、われわれがその影響をこうむり、行為遂行的な知(思考)としての信仰心が生まれ、成長していくのである。信じないものには信仰は訪れない、と言われるゆえんである。信じないことには何も始まらないのである。信じる、という行為が、すべてを(その後の信仰を、さらには恩寵を)生み出すのである。つまり、スキャンダラスなことではあるが、われわれは、自分の意志によってではなく、先立つ行動によって変わってしまうのである。
その場合、教義の内容の理解などは、当人や周囲を納得させるための(つまり、自己意志に基づいて行動する自己責任を負った主体、という秩序の基本的体裁を保つための)あとづけの説明にすぎない。実際には、理解よりも以前に、すでに、(いわば盲目的に)説明しがたい信仰に打たれているのである。つまり、二重化の思考が、すでに先立って、信仰の儀式的全体(その構造物)に分け入っているのであり、それが先行する無意識を形作っているのである。
信仰においてわれわれは、二重化によって、自身を消滅させる恐れのある、アイデンティティを変化させる恐れのある、異質な力という宗教的な形象(とどのつまりは、神)に魅かれるのであるが、それは、現在のわれわれという存在のあり方を可能にした(もたらした)、その前提となる、現在のわれわれには知りえない(窺い知れない)、われわれ自身の根源的決定という空白を、その異質な力に反射させているのである。
信仰とは、創始の決定という空白をやり直すことである。日常生活の中で、宗教的な形象との出会いを契機として、不意に、突然、日常の法の停止の瞬間が訪れるのであるが、それは、われわれにとって外的な力、つまり、よそから来る大きな力の到来、無条件の力の到来の瞬間であり、それがもたらす聖なるものの体験、すなわち脱自的な体験によって、生まれ変わることができるという可能性に触れるような出来事が起こるのである。その体験は、根本的な逸脱こそが、新たな法の確立であることを、無意識のうちに理解することなのである。
そのような変化、新たな自己を選びとる根源的な決定は、内部からは起こりえない。われわれは、能動的な決定をすることはいくらでもできる。が、それは、あくまで、内部の論理に規定された(沿った)出来事であって、決定的な変化は起こりえない。決定は、外部からの力による受動的な決定という、純然たる前提がなければ起こりえないのである。つまり、既知の秩序の枠組みの内部の選択の自由ではない、そのような枠組みを打ち破るという創始の身振りであるような、われわれの真の自由の決定とは受動的なものである、という理解し難い前提を可能にするものこそ、二重化による空白なのである。
